めばえの保育がめざすもの その2
子どもから生まれてくるカリキュラム
子どもたちの興味・関心を軸として、園生活のなかで生まれてくる、さまざまな遊び活動は 実に豊かでつきることのない泉のようなものです。 子どもは遊びの天才である、と言った学者がいましたが、まさにそのとおりです。
子どもたちは、幼稚園にその日の目的や目当てをもって登園してきます。 朝、子どもたちは、正に幼稚園に飛び込んでくる、といった様子で、入り口から自分たちの保育室めがけて走っていきます。 「今日は、ぼくはこれこれのことをやるんだ!」という、確かな目標をもって幼稚園にくるのです。 そして、さっそく一人ひとりの遊びがはじまります。
砂場に飛び込んでいく子ども、虫探しを始める子ども。 ボールをもってサッカー遊びやドッジボール遊びを始める子ども。 裏山の粘土場へいって、ダンゴ作りに取り組む子ども。 松ぽっくりやどんぐり、山栗やむくろじゅなどの木の実集めなどに熱中する子ども。 園庭に設置されている数十種類の木製手作り遊具に挑戦する子ども。 |
仲間と一緒にあるいは自分ひとりで、それぞれ自分のやりたいことに熱中していくのです。 粘土のダンゴを沢山作った子どもたちや、木の実を沢山集めた子どもたちが、仲間と相談して、お店やさんを開店して、他クラスの子どもたちとの交流が始まったり、紅葉した落ち葉や木の実を素材に、製作活動が始まったりします。
それらの日常的な小さな遊びがきっかけとなって、クラス全体の子どもたちが、みんなで力を出し合い、知恵をしぼって取り組んでいく活動に発展していくのです。 子どもたちがみんなで協力して、一つの共通の「めあて」に向かって活動するようになるのは、そのことが自分たちの遊びの延長であり、何よりもそれが楽しいからなのです。
一人でするよりも仲間と協力した方が、はるかに楽しくて、しかもダイナミックで大きなことがやれる、という経験を沢山味わう生活が土台になっているのです。
一人でじっくりと、自分のやりたいことに十分の時間をかけて、自ら納得するまで遊びこんだ子どもたちは、仲間と一緒に遊ぶ楽しさにも「開かれて」いくのです。
そのような子どもたちによって、幼稚園の生活は「生み出されて」いくのです。 教師の役目は、子どもたちの遊びをしっかりと見つめながら、適時適所の援助をしていくことです。
多からず、少なからず、突っ込み過ぎず、引っ込みすぎない、センスとタイミング感覚によって、子どもたちが「楽しさと充実感」をたっぷり味わうことができるような援助をしていくことです。 出すぎた援助や多すぎる干渉は、子どもにとって迷惑であり、子どもの発達の芽をつむことになります。
少なすぎる援助や半端な援助は、子どもに失望感や挫折感を味あわせることになります。 子どもに信頼されない人、子どもに当てにされない人は教師として失格ということになります。 教師の援助があると、自分たちの遊びがなんとなく高まったり、楽しくなったり、充実感が味わえる、というような日常の遊び体験が大切なのです。
教師の援助によって、遊びに新しいはずみが生まれたり、もっと難しい課題に気づかされたり、新しい可能性に開かれたりしていく体験が、子どもたちの心に、教師という存在に対する信頼と尊敬の思いを刻んでいくのです。
援助と一口に言いますが、援助とは子どもが成長し発達していくために、どうしても体験して行かなければならない、さまざまな困難や試練を乗り越えていくための援助であります。
人間としての、そして大人としての厳しさと厳格さをもって、子どもたちに自分の課題を克服していくことを要求するのが援助の本質なのです。
子どもが向き合っている困難な課題にたいして、その子の今の発達の姿にふさわしい形での援助を与えて、自分の意思と自分の力で、その課題を乗り越えていくように仕向けていくのが援助なのです。
そのような援助を通して、子どもたちは幼稚園生活を存分に楽しんでいく子どもたちになっていくのです。 子どもたちの園生活は、毎日が充実した楽しいものでなければなりません。「やった!」「やれた!」という成功感や成就感と、「またやりたい、もっとやりたい!」という期待感とが毎日豊かにあるような生活を、幼児期にたっぷりと体験することが大切なのです。
めばえ幼稚園の9,000平米の園庭と実に多種多様な手作り遊具や冒険遊び場の持っている意味はそこにあります。
子どもたちの喜びを、自分たちの喜びとする教師や親たちに支えられて、めばえ幼稚園は半世紀を歩んできました。 この姿勢は絶対に失ってはならないものだと、私たちは思っています。
子どもたちの喜びに仕えることが、幼稚園の使命なのです。
めばえの教育 かなり難しい話へ (理事長の教育論)