理事長著書

園長はガキ大将

ー子どもに生きて30年ー

 

 

 

『園長はガキ大将・』

 

Ⅰ 小さな出発

1 自然のなかで

庭だけの幼稚園

昭和二十八年九月十日(木)、五十五名の子どもたちを迎えて開園式がおこなわれました。

はじめは、我孫子キリスト教会付属教会学校という名で、二年後にはめばえ幼稚園と改称される幼稚園の小さな出発の日です。

千二百坪の園庭に十七・五坪の小さな園舎がポツンと建ち、砂場とブランコがひとつずつ、あとは何もありませんでした。

保育室は八坪一室だけ、残りは牧師としての私の住宅でした。開園式に先だつ八月十六日(日)に献堂式がおこなわれ、その八坪の保育室は日曜日の礼拝にもつかわれていました。九月の末にやっと電灯がついて、夜の集会ができるようになったのをおぼえています。井戸を掘って手こぎのポンプでした。

そもそも、私たちが千葉県の我孫子の町へ住みつくようになったのは、昭和二四年からキリスト教の伝道をはじめたのがきっかけでした。扇屋金物店横の文化会館(現在倉庫)で約一年、その後本郷洋裁学院の教室をお借りして約一年、さらに信徒の家庭で集会を続け、村越材木店の先代村越恰一氏のご厚意によって現在の土地を入手、四年目に教会を建てることができました。土地、建物は財団法人四谷ミッション維持財団というアメリカ系の、ミッションによって運営されていましたが、その後我孫子教会の宗教法人化にともない、ミッションから買いとることになりました。

開拓伝道期から幼稚園の開設、その後の数年間にわたり、私の同労者であり指導者、協力者であった星文子姉(現在八六歳、中野区住)には、言葉にあらわすことなどとうてい不可能なくらい多くのご苦労をおかけしました。私にとって神が与えてくださった信仰による母であります。

またこ主人の恵七氏もまるで息子のように私を受け入れ、かわいがってくれました。神学校以来四十年におよぶ星夫妻との交わりをとおして、私の得たものははかりしれないものがあります。教会学校の初代校長として星姉が就任し、広い庭だけで何もない小さな幼稚園がスタートしたのです。星先生はまことに豪放磊落な人で、豪快な笑いが特徴でした。そしてその性格のとおり、子どもたちをせまい保育室にとじこめていじいじと育ててはだめ、とばかり自由奔放な幼児教育を展開していったのです。早くも開園式の翌週には、母の会の発会式をおこない、十月には、今はない成田の三里塚牧場に遠足にいきました。

 

自然とともに

園庭が広いので、お天気さえよければ外遊びの毎日です。マツの木、ナラ、クリなどの灌木のあいだに実生のマツがびっしりとおい茂り、さらに篠竹とカヤが密生していました。開園前に、二、三百坪ほどは木を切り草を刈ってたいらなグランドをつくりましたが、あとは手つかずの山林でした。子どもたちは西傾斜の林をジャングルとよんで、そのなかにもぐりこんで遊びました。近所の人たちが“うるし山”とよんでいたほど、うるしの木がいっぱいはえていたので、私たちは毎日うるしを切っては子どもたちとたき火をしました。ところが皮膚の弱い子どもたちがうるしにかぶれはじめたので、もっぱら私ひとりで燃やしていたら、ついに全身がかぶれてしまい、ひどいめにあいました。ジャングルのなかには、子どもたちの秘密の場所がいくつもあり、けもの道のような小道が迷路のようにつくられていきました。よつんばいになってもぐっていかないとくぐれないトンネルのような道が、途中でいくつにも枝分かれして斜面の下に続くのです。かくれんぼをしているうちに、ひとりでかくれているのがおそろしくなってとびだしてきてしまう子どももいました。深いやぶのなかにひとりでじっと息を殺してかくれていると、何の音もきこえないまったくの静けさに、胸がどきどきしてきて気味が悪くなってくるのです。おにになった子も自分の動きをさとられまいとして、草ずれの音をたてないようにぬき足さし足で山のなかを探しまわったりしました。かくれる名人だった私は、しょっちゅう山のなかにおきざりにされたものです。

園庭には季節の野草がたくさんありました。ニホンスミレ、スズメノヤリ、ヒトリシズカ、ニリンソウ、ハコベ、ツメクサ、タンポポ、そしてハギとかボケなど、四季折々に咲いてくれました。子どもたちはカヤでよくけがをしました。刃もので切ったようにスパッと切れるのです。それは自然のなかで生活するために、自然そのものが子どもに与えてくれる、貴重な体験だと私は思っています。山グリの熟すころになると、現在でもそうですが、子どもたちは朝早くから園にきて拾います。指から血を流したりしながら悪戦苦闘して、子どもたちはいがをむくのです。

冬の陽たまりで山芝のはえた斜面に子どもたちを腰かけさせ、『みつばちマーヤの冒険』とか新見南吉、浜田広介などの童話をきかせるのが、私の日課でした。ある日のこと、いつものようにきのうの続きを話していたら、突然足もとから野ウサギがとびだして逃けていったのです。「それっ」とばかりウサギ狩りがはじまり、それからの一週間、朝から帰りまで山のなかをみんなで探しまわりました。ウンチや毛のついた草株、それらしい穴などあって、シャベルで掘ったりしましたがついにウサギの巣はみつかりませんでした。枯れ草の上に寝ころんでのんびり空をながめたり、山のなかを子どもたちと必死に追いかけっこをしたり、高さ十メートルほどのヒノキのてっぺんに登ってかくれてみたり、なんとなくゆったりとして毎日を心から楽しむ園生活でした。自然のなかにひたりきって子どもたちと遊びながら、自然のもつ大きな力に子どもの育ちをゆだねることによって、私たちの思いをはるかにこえるゆたかな育ちを子ども自身がつかんでいってくれることを、子どもから教えられるような日々でした。

 

自由か放任か

開園した翌年のこと、三年保育で娘を入園させて二年目を迎えた小山三雄氏(現サン・ゴルフ社長)が来園し、ききたいことがあるというのでした。「娘を入園させてしばらくようすをみていたが、この幼稚園はまったくの放任ではないか。いったい教育をどう考えているのかききたい」ということでした。それからえんえんと、数時間におよぶ大論争がはじまりました。私自身は幼稚園にいった経験などなく、いきなり小学校へ入学してたいへん緊張と恐怖感をもって集団生活をはじめた記憶があります。それにくらべると、幼児教育が普及したおかけで、子どもたちは早くから集団生活になれ、人間関係に緊張感や恐怖感をもたずにすむようになりました。

それは子どもが周囲のおとなや仲間に対して、安心感や信頼感をもつことができるからです。子どもが人間そのものに対して、また自分のおかれている周囲の環境に対して安心感と信頼感をもつことは、人生のはじまりにおいてしっかり心に植えつけられなければならない、基本的な感覚なのです。

人間と世界を信じ、安心して自分自身を表出し、自分の思いや願いを実現していける場として自分の生活をつかんでいく、そのスタートが幼稚園なのです。子どもは、自分のやりたいことやためしてみたいことをたくさんもっています。よちよち歩きで親に手をひいてもらっていた時期をすぎて、自分の足で走りまわれるようになった子どもは、おとなの想像を絶する大きな自由をからだじゅうに感じているはずなのです。そこらじゅうを歩きまわり走りまわって、なんでもやってみたいという欲求を山のようにもっているはずです。子どもは自分でやってみて、ためしてみて、自分の力の限界を知り、またやれること、やっていいこと、悪いことなどについておとなから学び、また自らも悟るのではないでしょうか。子どもの動きまわる自由を奪ってはならないのです。そんなことをしたら子どもの心まで奪うことになります。子どもたちが、かけがえのないいのちの日々を、喜びと充実感をもってうたいあげていくような生活をしてほしい。子どもたちから自由を奪い、躍りあがるようないのちの喜びを奪うような“しめつけ”や抑圧的な子育ては、たとえ親であっても許されないのです。教育とは“共育”(共に育つこと)であるという、私の信念をぶちまけての論争でした。小山氏とは、今もって親交をいただいております。

 

後援会がうまれる

めばえ幼稚園には創立以来、父親たちが中心になって運営されるPTA組織“めばえ会”があります。昭和二十九年に認可申請をした際、あまりにも頼りない経営基盤を心配した園児の父親たちや地域の人たちがめばえ幼稚園後援会をつくり、後に“めばえ会”という名称になりました。以来めばえ幼稚園の後援会として、父親たちが中心に運営されてきました。会計だけが母の会から選出されますが、年間の事業計画などはすべて父親たちの役員会によって立案されるのです。大綱は父親たちがたて、こまかい処理は母親たちにまかせてくという、まことに理にかなったすばらしい組織です。このようなPTA組織は、日本はおろか世界的にもまれにみるものではないでしょうか。

園の草創期には、あれやこれやと不足なものばかりでした。幼稚園でこんな計画をもっているがどうだろうか、こんなことをやってみたいがお金がたりないといった相談を、めばえ会にもちこむと、あっというまに対策がたてられ、具体化していくという、まことに強力な組織であります。私たちが幼児教育の実践に多くの夢をもちえたのは、このような父親たちのバックアップがあったからだと思います。資金的な問題解決ばかりではなくて、父親たちはそれぞれの専門的職業人としての立場から、その知恵や力を貸してくれました。造園業をいとなんでいた人は、園庭づくりや施設面で協力してくれました。金融関係に勤める父親は銀行とのつきあい方を教えてくれ、資金の借入れの道を開いてくれました。

設立三十周年の記念事業に何か協力したいというめばえ会の役員の人たちの申し出をうけたときにも、私はすこしも遠慮せずに即座に「お願いします」といいました。時あたかも、園児減少傾向がいちだんと強くなった昭和五十五年のことです。そんなときにいままでやったこともない寄付集めなんて、自分の首をしめるようなものだという人もいました。

私はぜんぜんそうは思いませんでした。私のしてきた幼児教育は、そんなことでびくともするものではないという、確信があったからです。「パイプオルガンをお願いしましょう。たぶん二千万円くらいかかると思います」と、われながら思いきったことをいったものです。しかし、時の橋本会長さんは「いいでしょう。やりましょう」とさっそく卒園生やその父兄によびかけて組織づくりに取り組み、一年たらずのあいだに目標を突破してしまったのです。昭和六十年九月、パイプオルガンは四年目にして完成しました。

子どもたちにいい音楽をきかせたいという、私の夢がここに実現したのです。しかも、製作にあたってくれた須藤宏さんは、じつにやわらかな音色をもつオルガンをつくってくれました。小さな教会の小さなオルガンですが、ちょっと類のないすばらしい音をだすオルガンなのです。父親たちのすばらしい力に支えられてきた三十年の園づくりを記念する金字塔だと、私は思っています。

 

子どもが生活をつくる

子どもたちの生活や遊びをみていると、彼らは、それぞれ、自分でやりたいことをやっているのがわかります。この“やりたいことをやる”という経験がたいへん大切なのです。やりたいことが思う存分やれるという生活経験が、どんな意味をもっているか。それは、ひと言ではいいつくせない“巨大な”ものを含んでいるのです。“やりたいことができる!”“やりたいことをやりたいだけやっていい!”ということが、“実感として”“わかって”きたとき、ある子どもたちは“走りだす”のです。また、別の子どもたちは“けげんな”顔をします。「ほんとうにいいの?」という顔です。

「先生、○○していい?」といちいちききにくる子どもたちの心のなかには、“ためし”あるいは“確認(たしかめ)”の気持ちがあります。「やっぱり、いいのか」ということになると、子どもたちは安心して、自分のやりたいことに“自分で”むかっていくのです。私たちは、子どもが自分で、自分のやりたいことに、たちむかっていく、この転換のときを大切にしたいのです。“自分でやる”“自分で選ぶ”ことの大事さ、自分のやりたいことが、たくさんある子どもに“していく”ことが、どんなに大切か、私たちはそのことのために、苦心さんたんするのです。

“まるで仏さまのように”また“マリアさまのように”子どもたちの要求をすべてまるごと受け入れてしまう入園直後の四月、五月の先生たち。それが、すこしずつすこしずつまるで薄紙をはぐように、子どもたちに対する要求度をましていくのです。「あなた、それ、自分でできるでしょう」とか「自分で、やってみましょうね」とかという言葉が、さりげなく、子どもたちに“つきつけられて”いくのです。「自分のことは、自分でやりなさいよ」「自分のしたい遊びを、自分でやりなさいよ」という教師の思いが、言葉のはしはしにでてくるのです。それは、自分の生活は自分の責任と意欲によってまかなっていくべきである、ということ、自分なりに、やりたいことをもつ子どもになってほしい、やりたいことがたくさんある子どもになってほしいという、教師の教育要求のあらわれなのです。やがて、子どもたちは、自分のクラスにもどってこない子どもにかわっていきます。三歳児などの場合には、はじめからクラスにはいってこない子もいます。近所のお兄ちゃん、お姉ちゃんのクラスにはいりこんでしまい、なかなか自分のクラスにはいってこないのです。それは、それでいいと思っています。子どもが、自分の安定できる場をつかんでくれること、そして、自分の場をつかんでからやりたいことにひらかれていくプロセスが大切なのです。

三、四歳児の場合など、入園後まもなくじつにみごとに自分のやりたいことにむかって“うちこんでいく”生活をつかみとっていくのです。お帰りの時間に、子どもたちをクラスに集めようとしても、まったく集まらない時期もあります。子どもたちが夢中になって、遊びにうちこんでいるのです。教師は、そんな子どもがでてきたことを、内心ニヤニヤしながら喜んでいるのです。「○○ちゃん、きょう何して遊んだの?」「どうしてそんなに楽しかったの?」などと問いかけながら、その子の楽しかった遊びを、クラスのみんなに伝えていくのです。「友だちがあんなに楽しい遊びをしている!」ということを“知らされ”ていくことによって、「僕もそんなことをしたい!」という願いや要求を、ほかの子どもたちがもつようになっていくのを願っているのです。そんなプロセスをとおして、幼稚園における生活というのは、子どもたちが自らがつくりあげていくものだという、実感をもつのです。生活の内容、そのあり方はすべて、子どもたちが主体となって、創造しうみだしていくものなのです。

 

2 手づくり

なんでもつくっちゃえ!

何もない幼稚園でしたから、何から何まで不足だらけでした。昭和三十年三月の認可の時点ではいちおう最低条件は満たしていましたが、園生活を続けていくうちにいろいろと必要なものがでてきたのです。雨が降ると傘たてがいります。それがないのです。いつまでもバケツにたてておくわけにもいきませんので、たる木とスギのぬき板を買い、カンナやノコギリ、カナヅチなど大工道具もぼつぼつとそろえて、子どもたちに手伝ってもらいながらつくっていきました。子どもたちにお手ふきのタオルをもってこさせるのですが、壁にクギを打ってぶらさげておくのは危険なので、やはりたる木を組んでつくりました。保育室にグリーンボードがほしい、自由にかきたい子が水彩画をかけるイーゼルがほしい、絵の具入れがほしい、次々と必要なものがでてくるのを、かたっぱしからつくっていくのは楽しいものでした。

三十年前につくったタオルかけは、いまだにちゃんと使用に耐えています。数年前に亡くなられた石井画伯と、約一週間かかってつくりあげたベニヤのロッカーも、まだ健在です。三十年のあいだに何回か紙を張りかえたり、ペンキを塗ったりしてきましたが、まだまだもっています。園児がしだいにふえてきて、二~三年ごとにひと教室ずつ増築してきましたが、資金のつごうでペンキ塗りを自分でやったり、先生方が春休みをフルにつかって、園舎全体のペンキの塗りかえをやったりしました。大工の相川さんが開園当時つくってくれた“コ”の字型の園児用イスも数年たってガタがきたので、背もたれの板を張って補強しました。現在でもいくつか残っていて、花台とかままごとなどにつかわれています。

ときには、「ここの壁をぬくと、二つのクラスどうしの交流ができておもしろい」などと思いつき、“それっ”とばかり破壊作業にとりかかり、筋かいがあってどうにもならなくなって、大工の相川さんにおでまし願ったこともありました。なんといってもつらかったのは、夏休みにやった屋根のペンキ塗りや保育室の天井のペンキ塗りでした。前者は暑いのでまいり、後者は首が痛くなってまいりました。みかねたペンキ屋のEさんがつかい古しのハケを二本分けてくれました。プロの道具のすばらしさに舌をまいたものです。それにペンキ屋の仕事には、それなりのだんどりが必要であり、それを省略するとひどいめにあうことを体得したものです。

 

限界に挑戦

開園当初、建築、設計にあたってくださった須藤十郎氏(現エーデル幼稚園理事長)が、木製のブランコを一基、記念にと贈ってくださいました。ワイヤーロープをつかった三メートル以上の高さのあるブランコで、じつに迫力がありました。気の弱い子どもは、すこし振り幅が大きくなってくると、こわくて泣きだしたものです。なかには、途中で「とめて」と叫びだす子もいました。あまり大きく振れるので、気持ちが悪くなったというのです。私もよくのりましたが、風をきって振りきる爽快さはなんともいえないいい気分でした。元気のよい男の子は、振りきったところからとびおりるのです。地上約二メートルからニメートル五十センチぐらいのところから、ヒラリッと空中にとびあがるのは、すごく勇気のいる遊びでした。

豪快なブランコ遊びは約五年ぐらい続いたでしょうか。木が腐ったのと、あまりに高すぎて危険なのとで、ふつうの鉄製ブランコにとりかえました。そのときの子どもたちの抗議はたいへんなものでした。男の子たちはりっぱな銀色のブランコをすっかり軽蔑して、みむきもしなかったものです。開園時に、設置基準を満たすために、もうひとつ購入したものにキャッスル・ジムがありました。

山の斜面のすこしたいらなところにたっていたのですが、雨のたびに土がくずれて、下のほうのコンクリートの土台が浮いてきました。すると子どもたちはジムの上のほうに縄をかけてみんなでひっぱり、これを倒してしまったのです。怪獣だ、船だ、といって大喜び今度はワッショイワッショイとみんなでかつぎあげて山のなかにひきずりこみ、横になったジムで遊びはじめました。これはあまりに危険だったので、しばらくしてまた元どおりにしました。山の斜面を掘ってつくったニメートルあまりのがけ登り(ロック・クライミング)も、子どもたちに人気のある遊び場でした。側溝につかうコンクリートに穴をあけて、くさりを固定し、数か所にぶらさげたのですが、子どもたちは登りきったとたんにニメートルの高さからとびおりるのです。両手、両足のバネをうまく利用してカエルのように着地してはがけ登りに挑戦していました。これも昭和四十二、三年ごろまでで、その後、子どもたちの運動機能の退化にあわせて消えていきました。もうひとつ、二十数メートルのすべり台も、まさに豪快の一語につきる遊び場でした。山の斜面に曲線型のコンクリートのすべり台をつくったのです。斜度がたりず、いろいろ試みてついに自動車にウォーター・ベアリングを板の下に二個つけるのがいちばんよくすべるということになり、近くのT自動車修理工場にしょっちゅういっては解体部品のなかをかきまわして、ベアリングをもらってきて、トロッコをつくりました。スピードをだしすぎると曲り角ですべり台の外へとびだしてしまったり、最後のところで両足をふんばって必死にブレーキをかけないと、ものすごいスピードでふっとんでいくのです。子どもたちはブレーキをかけるよりも、ふっとんでいくほうが好きなので、みんなで毎日草を集めては“落ち場”の安全を確保するしごとから遊びをはじめたものでした。これも昭和四五年ごろ、園児の増加にあわせて、保育室の増築のため、こわされました。

昔の子どもだからできた危険な遊びで、トロッコとコンクリートのあいだに指をはさんで切ったり、小さなけがが毎日続出する遊びだったのです。私も一度だけのってみましたが、おとなの足では長すぎてブレーキがかけられず、スピードがですぎてしまうので一回だけでやめました。あんなおそろしい遊びをよくやるもんだと、感心したものです。子どもたちは毎朝八時前、ときには七時ごろから幼稚園にとびこんできました。トロッコ遊びの“一番”をとりたいからでした。

しかし、子どもたちが自分の力の限界に挑戦するような遊びも、しだいにけがが多すぎるようになってきたために消えていきました。

 

木のぬくもり

木造建築の楽しさと便利さは、いつでもどこでも改造できることです。二つの保育室をへだてている壁の一部をこわして、出入り口をつくり、クラスどうしの日常的な交流が自由にできるようにしたり、最初は二間の四間、八坪だった保育室を三尺前につぎたして十坪にし、さらに壁を破り便所をつぶして十六坪にし、下屋の便所をつぎたしたりして、次第と変貌していくのです。

東西南北、四方にむかって建物が変形しなから広がっていけるのが木造建築なのです。これまでに何十回、増改築をくり返してきたことか、今ではかぞえることもできません。認可当時増築した二十一坪の保育室は東側に一間とちょっと広がり、北側には便所がふえて、現在は十七坪をすこしこえる広さになり、壁だった東側は全部出窓になって、朝の光がさんさんとそそぐ気持ちのよい保育室になっています。

設立時から二十年あまり、私たちの居住部分だったところは、今教材庫になっています。広さは八坪です。そこに台所と風呂場と便所(幼稚園と共用)と居間と二段ベットとが置かれて、親子四人の住み家になっていました。あまりにせまい風呂場だったので、北側にコンクリ-ト・ブロックを積んで一坪半の風呂場をつくりました。素人の私が積んだブロックは水平に立ちあがってくれず、途方にくれました。しかしなんとかなるものです。それは、今でもりっぱに教材庫の一部として役だっています。

保育室の壁を破って窓にしたり、出入り口をつくったり、その先にもうひとつ小さな生活空間をつくったりしてきたプロセスをふり返ってみると、そこには子どもたちの生活の広がりと深まりに導かれながら育てられてきた、私たち自身の成長の足どりをみる思いがいたします。保育をとおして、じつは子どもたちによって育てられてきた自分に気づかされるのです。子どもたちの生活をみつめていると、「あっ、ここには壁がないほうがいい。窓が必要だ」と気づかされたり、子どもの目の高さをこえる位置に窓がとりつけられてはならないことや、子どもどうしのさり気ない交わりがうまれるような建物やものの配置の大切さに気づかされます。

コンクリートや鉄骨ブロックづくりの保育室よりも、木造のなんともいいようのないやさしさとぬくもりを大切にした幼稚園づくりを、これからも考えていきたいと思うのです。木づくりといえば、十年前に山形県金山町に建てためばえ幼稚園は、雪対策のためにホールを鉄骨パイプ構造にした以外は、すべて地元の金山杉をつかいました。園舎の外壁も、焼き杉をもちい、保育室の窓を二重にして障子をつけました。じつにあたたかみのあるすばらしい幼稚園ができました。このことは、後でまたふれたいと思います。

 

集団のカ

幼稚園をはじめて四、五年目のことです。ある朝、大勢の子どもたちが、「ワッショィ、ワッショイ」とにぎやかにかけ声をかけながら、園庭で何かはじめました。外にでてみると、なんとキャッスル・ジムをおみこしみたいに三十人ちかくの子どもたちでかつぎあげ、運んでいるではありませんか。「何すんだよ!あぶないじゃないか!」とどなりつけ、さらに「どこへもっていくんだよ」とたずねると、「山の坂のほうへもっていって横にして、ロケットにするんだ」とのこと。「なるほど、そいつはおもしろい」というので、今度は私が現場監督になって山の遊び場まで無事に運びこみました。親がみていたら、ヒヤヒヤものだったでしょう。基礎部分のコンクリートが空中に浮かんでしまったので、それをこわすのは私の役目でした。ハンマーでたたいているうちに鉄パイプごととれてしまったりして、現在も二本ほど足のたりないキャッスル・ジムになってしまいました。子どもたちの集団の力を、ほんとうに“すごい”と感じた最初の体験でした。

こういう集団のカをダイナミックに発揮していくチャンスを、できるだけたくさん子どもたちに経験させたいという思いが、わきあがってきたものです。教師も子どもも胸をわくわくさせながら取り組んでいくような活動が、たくさんほしい、という思いです。ときには失敗してみんなでガックリするようなこともあっていい、とにかく全身でぶっかっていって、“やったあ”と快哉を叫ぶような“できごと”が、幼稚園生活のなかにたくさんあっていいのではないかということです。そこで思いついたのは、子どもと教師による遊び場づくりでした。手はじめにつくったのが“セメントの馬”でした。「おいっ、みんなでのって遊べる馬をつくろう」と子どもたちによびかけ、つくりたい子どもたちを中心にはじめたのです。園庭の西側、下り坂のはじまるあたりに穴を掘り基礎部分からつくりはじめました。古い家をこわしたというのでたくさんの古材が隅に運び込まれていたのを利用して・五寸角の角材をみんなで交代で切ります。角材を組みあわせて馬の形に仕上げ鉄棒を補強して金網をかぶせます。ふくらみのほしいところには新聞紙をつっこんで、あらましの形を作り、セメントをぬってできあがりというわけです。多いときは十数人、少ないときは二~三人の子どもたちとともに、二週間ほどかかって完成しました。ビニール袋を手袋のかわりにつかったのですが、夢中になると子どもたちは素手でセメントをつかんだりします。そのため、子どもたちの指がセメントでかぶれて、皮がむけてしまい、親たちに叱られたものでした。「いったい幼稚園で何をやっているんですか」ということでした。「親なんかくそくらえ。この楽しさがおとなにわかってたまるかよ」といった気分で、完成した馬に白ペンキを塗り、みんなでかわりばんこにのって遊びました。現在でも、この馬はびくともせずに園庭の隅で、子どもたちの相手をしています。

その後、教師と子どもたちによる遊び場づくりはあたりまえのこととなり、毎年のようにさまざまな作品がうまれることになりました。子どもたちは、ひとりや二人の小さなちからではどうにもならない仕事に取り組むことによって、仲間をよび集め、みんなで協力して目的にむかっていこうとします。集団でしかはたすことのできない、タフな仕事、手ごたえのある仕事、途方にくれたり、いきづまったり、失敗したり、いろいろと苦心さんたんしたすえにやっと完成するような仕事に取り組むことによって、子どもたちは個としても集団としてもたくましく育っていくのです。

 

親のカ

昭和四十二年は、わが園の伝統行事である“インディアンまつり”がはじまった年です。年に一度、父親と子どもだけの“水入らず”の行事があっていいじゃないかというので、はじまったのです。一年中のべつまくなしにつきあっている母親から解放されて、父親と子どもがじっくりとつきあう日をつくろうというのです。母親は、絶対に園にはいれない日でした。おじいちゃんでも、お兄ちゃんでもいい、おじさんでも、隣のお父さんでもいい、とにかく“男”と一緒に幼稚園にくる日、でした。数年のうちにこの原則は修正されてしまい、父親が出張とか病気のときは、母親の代理出席を認めるということになってしまいました。

当初は、父親たちが慣れぬ手つきでお好み焼きをつくり、すいかを切ったり、さまざまな模擬店を運営したりしていました。そして、せっかくお父さんたちがくるのだから、おとなでなけりゃやれないことをやってもらおうということになり、ハンド・クラフト(工作)の時間をもうけたのです。スギの丸太を数十本用意しておき、ヤグラを組んでつり橋をつくったり、ロープをつかってマツの木から木へつな渡りをつくったり、サクラやマツの大木に登ってもらって、七、八メートルの高さからターザン・ロープをつるしてもらったりなどなど、父親が集団で取り組むと、こんなにすごいものができる、というのを子どもたちにみせる場になりました。子どもたちは、目を輝かせて父親たちの作業をみています。言葉ではなくて、事実をとおして子どもたちが体験していくものが大切なのです。人生の先輩としての父親に対する人間的な尊敬の思いを、驚きと感動をもって心に刻みつけていく瞬間がそこにうまれるのです。汗にまみれ、ほこりにまみれる夏の一日ですが、親も子もともに「やった!」という充実感を共有できる体験をもつことの意味は大きいと思います。

親たちもまた、子どもたちが一か月以上もかけて、幼稚園じゅうをインディアン部落につくりかえるためのさまざまな共同製作による作品に目をみはり、わが子の成長ぶりを実感としてからだでうけとめていくのです。子どもって、すごいカをもっているんだなあという父親の感動と、お父さんって、すごいなあという子どもの感動と、二つの感動がであう、その場所から子どもたちの人間としての発達を支える“何か”がめばえてくるのではないかと思うのです。

 

3 親たちのこと

園を支える親たち

開園して約十年というものは、火の車としかいいようのない経営状態が続きました。毎月の人件費を払うとほとんどお金は残らないのです。増築したための借金をローンで払い、あれこれと必要なものを支払うと、赤字になります。苦肉の策として英語教室を開いて、中学生や高校、大学生に英語を教えて飢えをしのいだりもしました。学生時代に買いためた約二千冊ほどの本も、あらまし売りつくしてしまいました。夏休みだと、先生方に一か月分のボーナスを払った後は、スッカラカンの金欠状態になります。そこらじゅうの机のひきだしや箱のなかを探しまわって、やっと十円玉を二つ三つみつけると、うどん粉を買ってきてすいとんをつくり、夕食にありつくということがしばしばでした。そんな底をついた状況を妻(現園長)は、むしろ楽しんでいるようでした。貧に耐えるなどという唇をかみしめたようすはまったくないのです。なければないなりになんとかなるものという、天性の楽天家なのでしょう。それに、実際、なんとかなったものでした。

「先生、本代よ」などといって、「教育者というのは勉強しなくちゃね」と紙に包んで千円札を寄付していく親がいたり、「石炭、買いすぎちゃって、置くとこないのよ。幼稚園は広いからどこかおいてつかってよ」などとリヤカーにいっぱい運んできてくれた親もいました。朝、起きてみると玄関の前に野菜がドンとおいてあったのは、かぞえきれないほどの回数でした。昭和三十年に私たちは結婚したのですが、そのとき、有志の人たち四十数人で私のために背広を一着つくって祝ってくれました。それまでは、アメリカのララ物資のブカブカの、それも一着しかない背広を着ていましたので、せっかくの結婚式に、それではあまりみっともないということだったのでしょう。とにかく、三十数年の歩みをふり返ってみると、私たちの幼稚園は親たちや地域の人たちにしっかり支えられてここまでやってこられたということを、しみじみ実感するのです。親たちが、自分たちの幼稚園だという気持ちでいつも園を支え、みまもっていてくれる。そして何かあると、かならずだれかが手をさしのべてくれるのです。私たちは神さまに守られていると信じていますが、それは神さまがすばらしいひとびとを私たちの協力者として与えてくださっているという、事実に裏づけられているのです。

 

親ばかのすすめ

昔をふり返ってみると、最近の親と違って、ずいぶん親ばかを看板にかかげていた親たちが多かったように思います。わが子を愛する気持ちをじつに素直に、そしてストレートに表現してはばからない親たちが多かったのです。最近、思うのですが、子どもというものは、いくら愛されてもかまわないのではないかということです。子どもは愛されることによって望ましく育てられていくのだと思うのです。

もちろん、盲愛だとか溺愛だとかは困りますが、それでも愛されないよりは、はるかにましなのではないでしょうか。愛されない子ども、親に捨てられてしまう子どもの悲劇に比べれば、たとえ少々盲愛や溺愛のきらいがあっても許されることだと思うのです。開園当時、とてもからだの弱い女の子がいました。母親は毎日その子をはんてんにくるみ、おんぶして登園してきました。園の近くまでくると、背中からおろすのですが、私たちは毎朝それを待ちかまえていては「こらっ、またおんぶしてきた!だめじゃないの。あまやかして!」と叱ったものでした。

やせて、ひょろひょろしながら、必死になってわが子をおんぶして登園する母と子の姿はいまだにまぶたに残っています。「あら、またみつかっちゃった」などといいながら、肩をすくめている母親をにくめなかったものです。あの、自由か放任かの大論争をやった小山氏も、自ら親ばかと称してはばからなかった人でした。かわいくてたまらないということを、どうどうと語られた人でした。一方では、おとなとして、社会人、職業人としてのきびしい戦いの日々があります。それこそはいずりまわっても自分の家族のため、妻や子どもたちのために、そして何よりも自分自身のために、仕事をりっぱにやりとげていく生活があります。そして、家庭に帰ると、やさしいけれどどこかきびしいところのある“父”として、子どもの前に存在感をもって生きていた父親たちがいたのです。でれでれと子どもの機嫌をとり結ぶのではなく、またまるっきりだらしなくゴロゴロしているのでもなく、また、やたらと忙しがって子どもとすれちがってばかりもいない、ほどほどに子どもの生活にかかわりをもちながら、その成長を見守っている父親がいたのです。最近、そういう父親が少なくなってきたように思えてならないのです。思いきり、精いっぱいにわが子を愛して、育児にうちこんでいるというような母親も、少なくなってきてはいないでしょうか。どうも手ぬきの子育て、めんどうがりやの子育て、機械的非人間的な子育てが流行しはじめているようで、このままではまともな子どもが育たないという心配がしてなりません。子どもにみえるところで精いっぱいに人間としてのいきざまを生きてみせながら、理屈や計算ではなくて人の子の親としての真情を裸でぶっつけていくような子育てが、“親ばか”を自称してはばからなかった昔の親たちのなかにはあったと思います。

来年大学を卒業するA子が高校一年のころふらりと遊びにきたときにつぶやいた、「先生、親になるための国家試験かなんかあったほうがいいみたいね」という言葉が、私の心にずっとひびき続けて消えません。

 

父親が行事の中心

開園当初からめばえのPTAは、父親が中心になって運営されてきましたが、しだいに園の経営も安定してきた昭和四十年代のはじめ、町の夏祭りが中止になった時期があり、私は大いに不満でした。父親に肩車されて夜店をまわった、子ども時代の思いが忘れられないのです。私は町が夏祭りをやらないのなら、なんとか幼稚園で夏祭りをやりたいと思いました。先生たちに相談し、何日もかかって話し合った末にでてきたのが、前でもふれた“インディアンまつり”でした。七月中旬の日曜日をめあてに、幼稚園じゅうをインディアン部落につくりかえ、お父さんたちと一緒に遊ぼうという計画です。昭和四十二年が第一回のお祭りでした。めばえ会の父親たちを中心に“夜店づくり”に取り組みました。お好み焼き、ポップコーン(ばくだんと称してものすごい音をだしてできあがる)、アイスクリーム、わたあめ、サンドイッチ、すいか、おにぎり、むぎ茶などの店をすべて父親たちが設営し運営したのです。この日は、前で述べたように、母親の参加を認めないという原則でした。父と子だけの、水いらずの行事にするということだったのですが、やってみてわかったことは、やっぱり母親の協力がないと無理だということでした。役員は忙しくて、自分の子どもにつきあえないために子どもがたいへんさびしい思いをしました。また、お好み焼きなどやったことがない父親たちは、子どもたちに催促されててんやわんやの大さわぎで、ちょっとだけ母親の応援があったほうがいいということになりました。毎年くり返すうちにだいぶ慣れてはきたものの、各クラス二名ずつの母親と当日欠席の父親の代理として参加する母親、および役員の奥さんたちには協力してもらうということでおちつきました。

母親のなかには、「きょうは運よくうちのパパ出張なのよ」といって、喜び勇んでインディアンまつりに参加する人もいたりします。この日のよびものは、なんといっても父親たちによるハンド・クラフトです。子どもたちが設計してつくりかけ、どうにもその先は子どもの手におえないという、父親のために残されている部分を仕上げてくれたり、子どもたちの遊具やベンチなどを丸太やロープ、セメントをつかってつくってくれるのです。子どもたちは父親がみんなで協力して作業をすすめるのを、“目をみはって”みつめています。私はその光景をみるのが大好きです。

秋の運動会も、父親たちが中心に運営されていきます。親たちが真剣に取り組んでいる姿をみて、子どもの心に刻まれていくのを、私はこのうえなく大切にしていきたいのです。そこには、最初からかわることのない父親の姿が、あざやかに浮かびあがるのです。たくましく、頼りになる父親への深い尊敬の思いを心に刻まれて育つ子どもたちは幸せだと思います。

園生活での日々、子どもたちは「お父さんがつくってくれた」という、なんともいいようのない“あたたかさ”に包まれて遊具をつかい、ベンチに腰かけ、トーテムポールをみあげます。それは、子どもたちひとりひとりの育ちを支えている“父親の分身”なのです。

 

地域に根をおろす

めばえのインディアンまつりが近づいた、運動会、クリスマスが近づいた、といって、町の印刷屋さんからミス・プリントの紙や玩具製造工場からビニール製の小物などをはじめ、いろいろな人たちからじつにさまざまなものが寄せられてくるようになりました。自宅からインディアンのなりをして園にくる父親たちが多いこと、インディアンの大集団で手賀沼公園まででかけていって遊んだことなどもあって、町の風物誌のひとつとなったインディアンまつりを、町のひとびとが支えていてくれるのです。また、幼稚園というところはやたらとつまらないガラクタをつかって、子どもたちがおもしろい発想をしながら自由に遊ぶものだというイメージを、町の人たちがもってくれるようになったのです。

おかげさまで幼稚園の教材庫はいつもガラクタであふれていますし、各保育室にもいつでも子どもたちが自由に、しかもゆたかにつかいだせるものがたくさんあります。これは、じつに大事なことなのです。子どもたちひとりひとりのなかに“眠っている”意欲や能力にいつ火がついても、ただちに対応できる“てだて”ができているということなのです。どんなにシラケて、無気力な子どもで入園してても、めばえの子はかならず燃えてきます。どの子もその子なりに自分自身のすべてをぶつけて、幼い日々の生命の喜びをうたいあげていくような、いきいきとした生活をつかんでたくましく生きてくれるようになっていきます。

その秘密のひとつが、地域のひとびとに支えられているガラクタ集めにあるのです。いつでも、どこでも、好きなだけ、なんでも自由につかいたいだけつかえるという、教材や素材のゆたかさと多様さが、子どもたちの意欲をかきたてていくのです。

また、この三十年間、私は木が好きなのでずいぶんたくさん集めました。ツバキはおそらく二~三百ほどはあると思います。山の傾斜面は雨のために土が流れてしまうので、サツキやツツジなどを三千本以上も植えました。それにもまして、町のいろいろな人たちからいただいた植木は、数知れないほどたくさんあります。「家の増築をするので木を切りたいけど、いりませんか」という電話があればすぐにとんでいって、自分で掘れない大きい木は植木屋に頼んで運んでくるのです。小さなものから大木まで、この三十年間にめばえに運ばれていのちの助かった木は何本あるか、けんとうがつきません。春と秋に植木市を数年続けてやったこともあります。地域のひとびとや卒業生の父母、さらに安行市や野田市の植木生産業者の協力をえて何年かやったものです。そのたびに売れ残りの植木が数十本ずつ園庭に植えられました。

園児の父母のなかには、私が植木屋だと思っていた人が何人もいました。「おじさん、この植木の手入れ、どうやってするの?」なんてたずねてくれる人がいたりして、得意になって説明してあげるのはじつに楽しいものでした。

 

ツバキぐるい

よく似た名前があるもんだと思ったら、それは私の大学時代の友人であり、そのひとり息子が入園してきたことから、およそ二十年ぶりに再会した現独協大教授の郡司利夫氏は、知る人ぞ知るたいへんなツバキぐるいであります。何年前だったか、ある日彼の奥さんがこられて、銀行から借金をしたいから、保証人になれという彼の言葉を伝えたのです。なんでもその金で安行市の植木屋からツバキを買うのだと。そうとうな金額であったので少々驚いたりあきれたりしながら、千葉銀行の支店長に電話で紹介し判を押したのでした。保証人としての責任(?)というよりも好奇心にかられて彼の家を訪ねたのですが、トラックに一杯とか二杯とかあったというツバキが庭じゅうに植えられていました。彼のツバキ談義をきいているうちにしだいにのめりこむことになり、ついに私もなかばツバキぐるいが感染してしまい、以後ひまさえあれば彼と安行をはじめ近隣の植木屋まわりに精をだすことになりました。おかげで、今幼稚園の庭には百種はくだらぬツバキが植えられています。どうでもいいツバキから、小枝一本、葉の一枚がもがれても身のちぢむ思いのする珍種までいろいろとりそろえて、花の形がどうの色がいまひとつだのといちおうごたくを並べることができるようなところまでいったものです。

秋から冬にかけて咲くサザンカ・四月から五月にかけて次々と咲く各種のツバキはじつに楽しいものです。御本家である郡司氏の庭には足もとにもおよびませんが、とにもかくにもわが園の庭もツバキの時期にはちょっとしたものです。ただし、四月から五、六月にかけて私にとってはじつにつらい時期でもあります。入園してまもないころの子どもたちは、じつに気楽に、なんの気もなしに園庭を歩きながらツバキの葉をむしりとるのです。運悪く通り道に植えられている若い木などは、みるも無残に裸にされてしまったりするのです。まさに植木にとって受難の季節なのです。花壇のチューリップなどもときにはいけにえになります。

「管理人のおじさんに叱られるから花をとってはいけません!」と子どもを叱る母親がいる、となげいた松戸市の常磐平団地で幼稚園を経営されている森口清先生の言葉を、私は毎年春になると思いだすのです。園生活に慣れてきて、植物にもいのちがあることを知らされてくると、ツバキをはじめ植木たちと私はほっとひと安心することができるのです。

四月のなかば、園庭のサクラが散りはじめるころ、まさにサクラ吹雪が舞うなかを、顔をしかめうつむいたまま、わが子の手をひいて通りすぎてしまう若い母親をみたりすると、ツバキの受難はまだまだ続くと覚悟を決めなければなるまいと思ったりします。ある日本人がドイツを旅行したとき、ふと公園の菩提樹の葉を一枚つみとったのをみていた町の少年が、つかつかとそばへやってきて、「おじさん、この町の人たちがみな一枚ずつその葉をほしいといってとっていったら、この木はどうなると思いますか」といったという体験記をかいていました。その少年の後ろには、紀元七世紀から自然保護法を確立してきたドイツ民族の歴史があり、森林とともに生きてきたひとびとの思いがあります。自然を愛し、自然とともに生きてきたはずの私たち日本人の心に、今もう一度自然を思う思いがあるのかないのか、間い直してみる必要があるのではないでしょうか。花を生けて花の心を知らない、知ろうともしない、そんな非人間的な状況が感じられてならないのです。

 

親に迫る

幼稚園は、毎年五月ごろに新入園児の家庭訪間をします。私もクラスをもっていた十年間、家庭訪問をやりました。ところが先生たちには、一軒十分か二十分くらいでまわってきなさいというものの、私の場合は、一日に一軒だけだったりして、家庭訪間が夏休みごろまでかかってしまったものです。なかには園ではお弁当をちゃんと食べるのに、家ではちっとも食がすすまないという子どもがいたりして、夕食に招待してくださいと依頼、家内と二人ででかけていくのです。あんのじょう「食べなさい」の連発です。私は子どものぶんまでペロッと食べてしまい、「食べたくなければ食べなくていいんだよ」という逆療法を、両親に教えて帰ってくるのです。「ここの家ではお父さんがこの子の兄になりなさい。そして妹が食べなかったら妹のぶんまでどんどん食べてしまうのです。そうすれば、この子は自分からすすんで食べるようになるのです」という処方箋を教えるわけです。ガリガリにやせていたその子は、やがて小学校を卒業するころにはちょっと太りすぎかなと思われるほど健康そのものになっていました。ときには、主人が帰宅する時間にあわせて家庭訪間にきてちょうだいという注文があり、やはり家内と一緒に夕食をごちそうになりながらおおいに飲みかつ語ってくるというぐあいでしたから、考えてみれば一年じゅう家庭訪問をしていたようなものでした。そうした昔の父母や子どもたちの顔や名前は、忘れようにも忘れることのできない強い印象を私の心にきざんでいます。

両親とも仕事をもっている場合には、夜か日曜日にしかあうことができません。とくにその子の生活があれていてどうにもならないというような場合には、形式的に一回だけ訪間すればそれでおしまいというわけにはいきません。何回となく話しあい、その子にとって今がかけがえのない大事なときであることを十分に理解してもらったうえで、この子のために仕事をやめてほしいと迫っていきました。

三十年のあいだに、二人の母親が仕事を捨てて子育てを選んでくれました。その子たちはりっぱに成人し、今はもう結婚して親になっています。幼い子どもにとって、母親は世界にただひとりの頼りになる人であり、心のよりどころであります。その母親が子どもよりも仕事を愛しているとなると、子どもはまったくよるべのない孤独のなかに捨てられてしまうことになります。親の愛をゆたかな実感としてうけとめながら育つことによってだけ、子どもは人間らしく成長していけるのです。十年一日のごとくというか、くる日もくる日もまったく同じおかずで弁当をもってこさせる母親にも、私は反省をうながすことにしています。「あなたは子どもを捨てているんですか。あなたのつくる弁当から、子どもは母親の愛情をまったく感じることができません。子捨て弁当をやめて、もっと心のこもった愛情弁当を子どもにもたせなさい」と。「それができないのなら幼稚園に子どもをよこすのをやめて、じっくり子育てをしなさい。こんなざまでは子どもはまともに育つはずはありません。中学、高校になって手のつけられない子どもになるのは目にみえています」と。

また反対に、「もったいなくて食べられない」とどこから箸をつけていいか、さんざん迷っている子どもたちもいます。一年間、ついに同じ弁当を二度とつくらなかったという母親もいるのです。おそらく、めばえの記録保持者ではないかと思うのですが、その子が六十一年三月にすてきなお嫁さんをもらうことになり、私たち夫婦が仲人をすることになっています。

 

コミュニティセンター

昭和五十六年四月、現在の新しい建物が完成しました。鉄筋コンクリートづくりの地下一階、地上三階の延べ八百六平方メートルの建物は、第一回から第三十回までの卒業生たちや父母、教会員たちの総力によってうまれたものです。総工費一億五千万円のうち、二千万円が募金によって集められました。園設立三十周年を記念して、二階の礼拝堂内にパイプオルガンが建造されることになり、設計、施工は横須賀の須藤オルガン工房があたり、昭和六十年に完成されました。地下一階は体育館(百七十六平方メートル)、一階は事務室と集会室(二百平方メートル)、二階は礼拝堂と図書室二つ(ニ百八十八平方メートル)です。体育館や集会室は園児や父母たちをはじめ、地域の人たちに利用され、とくに卒業生やその友人たちの結婚式やパーティーがちょくちょくおこなわれるようになりました。なにしろお金はかからないし、時間の制限なしにパーティーができるというので、おおかたの評判はいいようです。幼稚園設立時から通称“教会のおばさん”でとおっている外山朝子姉を先頭に、教会のご婦人たちが手料理で祝ってくれるパーティーは、ふだんあまり食べることのできない、いもの煮っころがしや、できたての赤飯が大きな飯台に山盛りにでてきたり、若者たちは形式ではなくて、心から結婚を祝福し喜びあう素朴なもてなしに感動するのです。

教会のおばさんたちは、社会奉仕活動やボランティア活動を熱心に展開しています。そうした外へむかっての活動が、母の会のグループ活動にも活発になってきました。保育室に余裕ができたこともあって、お母さんたちはほとんど毎日、なにかしらの活動のために幼稚園に集まってきます。コーラス、人形劇、手芸、卓球、書道、図書貸し出し、文集や口頭詩集めめなどのグループをはじめとして、昭和五十九年度には伝承遊び、六十年にはお話のグループがうまれ、自分たちの仲間づくりを楽しむなかで、子どもたちのためのプログラムを考え、町の老人施設、養護施設そのほかさまざまなところへでていって奉仕活動を展開しています。

幼稚園は幼児のための教育施設です。しかし、同時に子どもをもつ親たちのであいの場でもあります。さらにもうすこし視野を広げれば、幼稚園はこの地域の子育て文化のセンターであり、育ちあがった人たちの交わりの場でもあります。あちこちの町内会の集会場所ともなり、おけいこごとの発表会の会場にももちいられます。たくさんの人たちがここでであい、交わりをもち、ともに語りあうことのできる場としてもちいられていくのは、ほんとうにすばらしいことだと思います。この建物を実現させるために、記念事業を発起してくださった、当時のめばえ会の役員の方々には、とくに感謝の意をささげたいと思います。

 

4 ガキ大将として

野原や林が保育室

幼稚園をはじめて約十年間、私もクラスをもちました。なにしろ先生たちに給料を払うと残り

はいくらもないのです。増築をしたり設備や備品、教材を買ったりする資金のでどころがない

のです。毎月が火の車のような自転車操業でしたから、人減らしのために園長もクラスをもた

ざるをえなかったわけです。

幸いに神学校時代、今はもう亡くなられた音楽家伊達愛先生に手ほどきをうけたピアノのお

かげで、幼稚園の歌ぐらいはなんとか弾けたので、興にまかせて子どもの歌を何曲も何曲も弾

きまくって、うたいたい子はよっといでとばかり、ひとりで楽しんでいました。あんまりいつ

までもピアノを弾いてひとりでうたっているので、子どもたちのほうがあきれてみんな外へ

遊びにいってしまったりしたものです。

しかし、なんといっても楽しかったのは園外保育でした。お天気さえよければ、「お一い、散歩

にいこう」と外へ連れだしてしまうのです。手賀沼のほとりは、じつに楽しいことがいっぱい

ありました。

沢ガニのとれるところ、オタマジャクシや、ミズスマシ、トンボの幼虫のとれるところ、春には

ゼンマイやワラビ、フキノトウ、ヤマミツバ、セリ、ヤマウドなど、子どもたちと一緒につんで、

わが家の夕食のおかずになりました。秋にはキノコ狩りでハツタケがとれました。

がけ登りもずいぶんやりましたが、あるとき、どうにも登りきれない、がけに挑戦してしまい、

ひどいめにあったこともありました。私が先頭になって登っていったのですが、頂上近くがひ

さしのようにせりだしていて、どうにもならないのです。はるかに下のほうの田んぼで働いて

いた農家のおじさんがどなっているのがきこえました。

「おーい、そこは上に登っても道がないぞー。あぶないからおりてこーい!そんな小さい子ど

もたちを連れてばかなことするな!」と。子どもたちはがけの途中にへばりついて動けなく

なっていました。「みんな動くな!ひとりずつおろしてやるから」と、いちばん下にいる子か

ら順におろしてやり、やっとの思いで帰途につきました。

「あーあ、やっぱりだめだったか」とたがいになぐさめあい、残念がりました。

そして帰り道にやお屋により、みんなに一個ずつみかんを買い与えて食べました。そして、

「きょうのことは家に帰って、絶対にお父さんやお母さんに話すなよ」と釘をさしたもので

す。

 

楽しくなけリや!

楽しくなけりゃ、教育なんかやっていられるかというのが、私の幼児教育におけるモットーで

す。園づくりのプロセスをずっとふり返って、この三十年間にいろいろな試みをやってきまし

たが、その発想の原点は、“おれが楽しむこと”でありました。ガキ大将である私が、まず楽し

むのです。

夜寝ていても、夜なかにふっと頭に浮かんでくることがあります。

山のすべり台やがけ登りもそうでした。

ターザンロープやクモの巣ネット(遊動円木の柱にロープネットを張ったもの)もそうでした

。セメントでの動物づくりも夜寝ているときにひらめいて、その製作過程を一生懸命メモをと

りながら考えたものです。ひらめくとじっとしていられず、すぐ実行にとりかかるのです。

こんなものがあったら子どもたちは喜ふぞ、こんなものをつくろうといったら、子どもたちは

とびついてくるぞ、と思うと胸がときめくのです。そして、後のことも考えずにやってしまっ

てから、また新しい借金に苦しめられました。

矢もたてもたまらずというのでしょうか、まったく子どもみたいにそれがほしくなり、やって

みたくなるという、幼児的、衝動的なところがあり、人のことはいえないと反省するのですが、

わかっていてもやめられないのです。

妻はそんな私の衝動的な傾向にしょっちゅう警戒の目を光らせながらも、「あら、いいわね」

とすぐのってくるほうですから、どちらかというと似た者夫婦なのでしょう。

子どもたちがきっと喜んでくれるという思いが、私たちをつきあげてくるとき、「お金の問題

じゃない」とばかりつっ走ってきたのですが、その根っこには“おれが楽しくなけれりゃ、幼

稚園なんかやってる意味がない”というガキ大将的気分がずっと張り続けているのです。

 

神の子どもたち

私がクラスを受けもっていたのは昭和三十年から三十九年ごろまででしたが、後で考えてみ

るとずいぶん問題の多いクラスでした。

なにしろ幼稚園教諭の免状はもってない無資格の助手という身分で、文部省の幼稚園教育要

領とか六領域とかいうものがあるということすら知らなかったズブの素人なわけです。日々

のメイン・メニューはもっぱら外遊びと自由遊び、園外散歩とうんざりするほどふんだんにピ

アノを弾いてうたう童謡ぐらいのもので、あと何する?というとわけがわからないのです。

教会の信者たちのなかから幼稚園教諭の資格をとってくれた人が二人でてきたので、手伝っ

てもらいました。山岸姉と中村姉の二人です。創設期のもっとも苦しい時代をともに生きてく

れたお二人には、ほんとうに感謝のほかありません。

この二人のほかに、助手として二階堂姉がいました。当時定時制高校に通いながらこまねずみ

のように動いてくれたものでした。

しかし、設立当時から数年問というものは「あした、何やろうか」というような職員会議で、

もっぱら月刊誌のカリキュラムなどを参考にして、折り紙とか製作とかのテーマややり方を

決める程度でした。

子どもたちは私たち教師が指導内容として用意したものを“やらされる”ことも多かったの

ですが、初代の教会学校校長であった星文子姉が、子どもの自由な生活を尊重しようという考

え方を大切にしたため、なによりも子どもたちが夢中になって遊べるものを最優先させると

いう気風が、開園当初からみなぎっていたのです。

その根っこにあったのは、キリスト信仰でした。神の子どもたちを委ねられているという思い

です。神に愛され、神からひとり固有の人格と生命を授けられている子どもたちが、私たちの

手のうちに委ねられているという、畏怖の思いです。

「このいと小さい者のひとりにしたのは、すなわち私にしたのである、というキリストの言

葉は、私たちと子どもたちとの関係のありようを支え、規定する“おそるべき言葉”なのです。

不用意なひと言、うっかりした態度、ちょっとしたはずみにさりげなくでてくるものによって

、おとなは子どもの心を踏みつけたり、いやしがたく傷つけてしまうことがあるのです。

人間とはほんとうに弱く愚かなものです。

教師といえども人間であり、じっにさまざまなくせや弱さ、欠点をもっています。しかし、大事

なことは、教師として、人間として、自分の弱点や欠点を知っていることであり、さらにそれら

の問題点を自分自身の課題としてみつめる、客観的な目をもつことではないかと思うのです。

 

自分を愛するように

楽しくなけりゃ、保育じゃないというモットーは、裏返してみると“自分を愛するように、あ

なたの隣人を愛しなさい”という聖書の言葉に通じるものがあるのです。

自分を愛するという“自己愛”、自我の確立と自我の獲得への欲求、これがまず人間が人間に

なっていくために必要な、基本的欲求だと思います。

よりよい自分、よりゆたかな自分、よりたかみに到達しようとする自分、より深みにあるもの

をつかみとろうとする自分、そういう自分を実現しようとする意志と願いをもつことが、人間

の人間らしさを支える大切な条件であると思うのです。

子どもたちは、今、それぞれのかけがえのない人生のスタート地点において生活しています。

たった一度しかない人生のスタートなのです。二度とくり返しのきかない人生を生きようと

しているのです。だとすれば、私たちは子どもたちひとりひとりに“自分を愛する”というこ

とを、徹底的に“伝えて”おきたいと思うのです。

あえて“教えて”といわず、“伝えて”というのは、自分を愛するということはまさに“教え

ごと”ではないからです。言葉による指導ではなくて、生きざまによる指導だからです。

幼稚園をはじめてまもなく、子どものけんかが問題になりました。

昔の子どもたちは今よりもはるかに多く、はるかに激しくけんかをしました。

私はいつもやられている弱い子どもに、ひそかにけんかの特訓をやって、なぐり方やよけ方を

教えてやりました。ボスをやっつけるためには、たばになってかかっていくようにけしかけて

やりました。

それが“発覚”して、母の会で問題になり「キリスト教幼稚園のはずなのに、子どものけんか

をけしかけるとは何事か。右のほおを打たれたら左のほおをもむけなさいと、聖書にかいてあ

るではないか」ときつい抗議でした。

しかし私は、“自分を愛する”こと、自分を大事にすること、自分の要求をもち、自分の願いを

実現しようとし、自己主張をしていくことが、幼児期にはことのほか大切であることを主張し

てゆずりませんでした。

我慢したり、耐えたり、人を許すという気持ちは、さんざ自己主張をしておたがいにぶつかり

あい、やりあっていくなかから、いつとはなしに、子どもたちの心のなかに形成されてくる“

人間らしい思い”です。それをはじめから“我慢しなさい”“許しなさい”と、一方的な言葉

による指導でおしつけていくのは、子どもの精神発達上好ましくないことで、子どもの心がゆ

がんでしまう、夫婦げんかは犬も食わないが、子どものけんかはおおいにけっこうだと、いう

ことなのです。

まるで兄弟のようにはでにけんかをしている子どもたちをみているのは、じつに楽しいもの

です。仲がよいからこそ、子どもたちは自分の本音をだしあってぶつかりあえるのです。

自分を愛するように、自分の友だちを愛せるのが子どもなのです。そして、その愛の表現がた

またまけんかであったりするのです。

さっきまでものすごいけんかをやっていた二人が、まるでうそのように仲よく遊んでいると

いう光景を、毎日のようにみていると、子どもからけんかをする権利をとりあげてはならない

とつくづく思うのです。

 

成熟への鍵

子どもは、遊びに夢中になるとすべてを忘れて没頭していきます。その姿は、まるで自分を遊

びの楽しさのなかにほうりこんでしまっているようにみえます。

われを忘れ、時のたつのも忘れて、遊びに夢中になっている子どもというのは、自分をその対

象である楽しい遊びにむかって“投げだして”いるのだと思います。

自己投棄などというむずかしい言葉がありますが、子どもは遊びに没頭しているとき、自分と

いうもののすべてを遊びに投入しているのだと思います。いわば遊びのなかで夢中になって

いる自分に、いっさいをあけ渡しているのです。

そして、遊びが終わってわれにかえったとき、子どもは「楽しかった。またやろうね」などと

いっています。

遊びに夢中になっていた自分、自分のすべてを投げだして遊びに集中した自分自身への満足

感や充実感をもって、子どもはふたたびいっもの自分にもどっていくのです。

何かに夢中になる体験をとおして、子どもはすこしずつ自分というものを客観的にみる力を

獲得していくのではないでしょうか。没我体験や忘我体験をとおして子どもは、そんな状態に

なれる自分に満足し、そんなことのできる自分を発見していくのです。

子どもは毎日の遊び体験をとおして、そうした新しい自己を自分のうちにみいだし、きのうの

自分、けさの自分よりもより充実し、より楽しいことのできる新しい自分を自分のなかに獲得

し続けているのだと思います。

反対に、夢中になってわれを忘れる体験をもたないで、子ども時代を通りすぎてしまうことの

おそろしさを私は感じるのです。没我体験や忘我体験を遊びのなかでついぞ味わうことのな

いままに幼児期を通過してしまうと、自我の獲得や自主性、主体性の感覚が発達しないまま次

の時期へ入ってしまうことになります。

いわゆる自分自身についての存在感や自分の行動とその結果についての充足感、成就感、完成

感の喜びを味わうことなく幼児期をすごしてしまうのは、人間として成熟していくうえで重

大な欠陥になるのはまちがいのないことだと思います。

現代人のなかに、おとなとして成熟することをあきらめる傾向が目だちはじめていると指摘

している学者がいますが、私はそうした傾向の根は幼児期の生活や生育の仕方にあると思っ

ています。子どもは楽しい遊びに夢中になって自分のすべてをあけわたしてしまうような体

験が多ければ多いほど、より望ましく育つのです。

 

生活神経

昔の子どもたちは、生活全体にピーンと神経がかよっていたような気がします。

単なる運動神経だけではありません。生活感覚といったほうが言葉としては正しいのでしょ

うが、それだけでも表現しきれないような生活全体にかかわる神経のはたらきのたしかさを

もっていたように思います。

とにかく、何かずっしりと重さを感じる子どもたちだったのです。

幼稚園にくるのが、いやだという子どもにしても、最近は、あっというまに慣れてしまいます

が、昔はほんとうに手こずったものです。目のたまをひんむいて、涙をこらえながらテコでも

動かないというようなタフな子ども、じだんだふんで号泣し、あばれまわって手のつけようが

なかった子ども、教師にかみつき、けとばし、あらん限りの抵抗をした子ども、そういう子ども

はいつのまにかいなくなってしまいました。

私の洋服のポケットをひきちぎってしまったような、いきおいのある子どもはいなくなりま

した。

家庭教育が進歩したためではないと、私は思います。子どもの生育のプロセスがまったく貧し

くなったためだと思うのです。

幼稚園に入園してくる前の子どもたちの生活の質が、がた落ちに悪くなったためだと思うの

です。入園前の子どもたちの生活体験のとぼしさ、運動体験の不足、遊びの生活の貧しさなど

などかぞえあげればきりがないほど、子どもの生活は変質してしまったのです。

もやしのようにふわふわっとしたしまりのないからだつきで、いつころぶか、どこでころんで

もおかしくないような頼りない足どりの子どもがふえてきました。ころぶとつきたての餅の

ようにべしゃっところんで想像もできないような部位にけがをしたり、複雑骨折になってし

まったりするのです。私はそういう子どもたちをみると心が痛みます。なんとかしなければ、

と思わずにいられないのです。

「幼稚園をやってるんですか、子どもがお好きでなくちゃできない仕事ですね」などといわ

れると、逆に「私は子どもがきらいだからやっているんですよ」といったりします。

子どもが気に入らないから、私はよけいに幼稚園の仕事が大切に思えてきたのです。

こんな気に入らない子どもたちを、なんとか私の気に入るような子どもに育てていきたいと

いう、逆説的な気分にかられていったのです。

放牧スタイルといわれる、めばえの自然教育の根っこはそのへんにあるのです。

もっと存在感のある子どもに育ってほしいという願い、精いっぱいに自己主張をし、自分の思

いのありったけをものごとにぶつけて、納得のいくまでやってみる、やってみたいというよう

な「生きている」というたしかな手ごたえのある子どもに育ってほしいという願いをこめて

、私は子どもたちを“自然の手”にゆだねていく教育を大切にしたいのです。

しっかりと自分の足で大地を踏みしめ、自然が子どもたちに与えようとしている“生きる

力”をゆたかに自分のなかに受けとっていってほしいのです。

北風の吹きすさぶなかで、一日中ドッジボールに熱中している子どもたちをみて、私は心から

納得するのです。

土を一生懸命に掘りまくって、幼虫探しに夢中になっている子どもたちの姿に、私はいいしれ

ぬ感動をおぼえるのです。

子どもたちが「真に生きている」という事実こそ、教育というといとなみにかかわるものの

最高の喜びなのです。

 

Ⅱ 子どもの発見

1 自由を求めて

 

ニールかぶれ

幼稚園をはじめて四、五年、さっぱり幼児教育の中身というものがわからないまま、暗中模索

をしていました。

そのころにであったのがイギリスのサマーヒルで自由教育を実践した二ールの本でした。

『問題の親』『問題の学校』『問題の子ども』などといった二ール選集を続んだとき、「こ

れだ!」とばかり先生たちと読書会をはじめて二ール研究にのめりこんでいったのです。

当時、だいぶお年だった霜田静志先生を、園にお招きして講演会をしたこともありました。教

会員の塚原姉が若いころ霜田先生の幼稚園を手伝っておられたこともあって、実現した講演

会でした。霜田先生の自由教育論は、私にとってじつに強烈なインパクトでした。

明けても暮れてもニール、ニールで、二ールの本を何度も何度も読み返し、メモをとり、職員会

で話しあい、ニールでなければ夜が明けないというぐらい、ニールに傾倒していったのです。

昭和三十二年のことでした。

子どもの自由をどのように保障していくのか、放任と自由との境いめはどこなのか、自由にと

もなう責任的態度はどのように育つのか、教師はどこまで子どもの問題にたちいることがで

きるのか、子どもたちの自発的、内発的動機にもとづく活動と教師の指導との関係はどうあっ

たらよいのか、指導計画と子どもたちの実際の動きとのくいちがいにどう対応したらよいの

かなど、毎日の保育のなかでぶつかるさまざまな問題について、二ールの思想をてがかりにふ

たたび、新しい模索の時代がはじまったのです。

当時の私たちがつかんだひとつの大事な結論は何だったかというと、それは“ひとりひとり

を大切にする”というごくあたりまえの、そしていつの時代にも忘れてばならない教育とい

ういとなみにおける一般的原則でありました。

その“ひとりひとりを大切にする”という原則を、具体的な教育の場において、現実の子ども

たちとの実際の対応のなかで、どのように実践していくかということになると、これはじつに

むずかしい課題であります。何がむずかしいかというと、これは教師の側のむずかしさです。

ニールの本を読んだからといって、みんなニールになってしまうわけではないし、頭で理解し

ても実際の場面にぶっかったときにはそうはいかないのが、人間というものの実態なのです。

ニールをこやしとしながら、私たちは私たち自身の保育をつくりだしていこうということに、

なっていったのです。

 

自由のきびしさ

子どもたちが自由に自分のやりたいことを選んで、好きなように一日をおくれるような保育

をやってみようということになりました。

いわゆるコーナー保育です。

四つの保育室と園庭とで五人の教師がそれぞれ自分の思うとおりの保育計画をたて、環境設

定をして、子どもたちを待ちうけるのです。

子どもたちは朝登園してくると、いちおうそれぞれの所属するクラスにはいり、かばんや帽子

などを自分のロッカ-に置き、後はひとりひとりの自由な選択にまかせていくのです。

子どもたちはあっちの保育室からこっちの保育室へ、さらに園庭での遊びへと勝手にとび歩

いていきます。好奇心のかたまりのような活発な子どもは、全部のコーナーを次々とつまみ食

いでもするように渡り歩きながら、自分のいちばん気に入った活動にとびついていきます。の

んびり、ゆったりとコーナーを眺めながら、マイペースで楽しそうな遊びに参加していく子も

います。

そんなコーナー保育には目もくれないで、仲間たちと探検ごっこやターザンごっこに明け暮れている男の子のグループもあります。

教師は丹念にどの子がどんな活動に参加したか、どんな仲間どうしのかかわりがあったか、そこで子どもの何が育ったかなどに目をとめて記録に残していき、個々の子どもの個性とか傾向性とかをつかんで指導の手がかりにしようと努力するのです。

ところが、三月たち半年たつうちに、子どもたちが全然よりつかないコーナーがでてきました。その保育室は開店休業という状態なのです。なぜなのか。私たちは子どもたちの選択を分析していきました。その結果、子どもたちはじつにきびしい選択をすることがあきらかになってきたのです。

子どもたちはコーナーを選ぶ場合、まず教材としての遊びの楽しさにひかれていきます。そして、その遊びや活動における人間関係、仲間や教師とのかかわりを楽しみながら参加していく

のです。

その場合、教師があまりにも前にですぎてあれこれと命令し指図するような“指導型”であると、子どもたちの主体的な意欲や欲求がおしつけられてしまい、教師主導型というか教師中心の活動にかたむいていくのです。結果として、そういう教師のコーナーには子どもが集まらなくなってしまうという事態に、たちいたったわけなのです。この経験は私たち教師にとってじつにきびしいものでした。教師の指導性というのは、あれこれの言葉かけによって子どもに命令や指示を与えることで成りたつのではなくて、子どもたちひとりひとりの主体的な興味や関心に対応して、子どもの心を理解しながら、その場その場に応じた適切な助言や援助を、でしゃばらずにさり気なくやることだと気づいたのです。

 

自分で育つ

子どもたちはじつにのびやかに、そして自由にやりたいことをやっていくのです。いのちに危

険がない限り、子どもたちのやりたいことを、やってのけていくカを妨げてはならないのだと

いうことに気づいたのは、幼稚園をはじめてから四、五年もたってからでした。

とにかく子どもたちは私たちおとなをびっくりさせるようなことを、しょっちゅうやらかし

たのです。

お昼の弁当を食べるときに、いない子が何人かいます。園からぬけだして手賀沼へ遊びに、

いっている子どもたちでした。みんなで食事をしていると、どろんこになって帰ってくるので

す。

「先生、靴片ほうなくした」といってどろだらけのからだで帰ってくるのです。田んぼに片足

つっこんでぬけなくなり、やっと脱出したら靴がなかったのです。

お母さんにあやまりの電話をする私に「またですか」という返事、「首に縄つけとくわけに

いきませんよね」とやりかえしたものです。

やたらととってくる獲物のザリガニやオタマジャクシを飼うために、みんなで池をつくろう

と、穴を掘って池づくりをやったら、穴を掘るのがおもしろくなって、一か月以上くる日もく

るひも穴を掘り続けて、二~三十人ははいれるような巨大な穴を掘りあげ、上に屋根をかぶせ

て“基地づくり”になったりしました。

山の斜面に穴を掘る作業は、マツやナラの木の太い根っこがあったりして、難航をきわめまし

たが、子どもたちの集団の力はみごとにそれをのりこえていきました。

その年の園児募集で翌年の園児数がふえることになり、子どもたちのつくった基地をつぶさ

ないと保育室の増築ができないため、やっとのことで子どもたちに納得してもらって現在の

六角保育室が建てられたのです。

子どもたちは、ものすごい集団のエネルギーを発揮します。

めばえのカリキュラムの内容をささえているのは、子どもたちの集団のダイナミズムです。

遊び場づくり、インディァンまつり、運動会、クリスマス、卒園行事などどれひとつとりあげて

も、すべて子どもたちの集団の力がっくりあげていくものばかりなのです。

子どもたちがたばになって何かに取り組むと、ものすごい力を発揮していく、その力こそ幼稚

園づくりの原動力なのです。

まさに、子どもたちは自分で育っているということを、私たちは子どもの事実のなかから学び

、子どもの自ら育つ力をよりどころとして幼稚園生活をつくりだしてきた、と思っています。

子どもの自由

子どもたちは園生活の主人公であるということを、ほんとうに認めるなら、私たちおとな、教

師や親は、子どもの自由を本気になって認めていかなければならないと、思うのです。

そうではなくて、幼稚園を“幼児収容所”だというのなら、子どもの自由とか自主性とかとい

うことは、まるで問題にする必要はありません。時間で決めたことを決めたとおりに、子ども

たちに“やらせ”ればすむのです。

私たちは、子どもを神さまからのあずかりものとして受けとめ、保育という業を神の委託と考

えたとき、神さまの子どもたちを自分たちの思いどおりにひきまわし、いじりまわしてしまう

ことに、どうにも割りきれない“おそれ”を感じたのです。

そこで、自由と放任という問題についてもずいぶん話しあい、考えあいました。

そこでみつけたことはなんであったかというと、自由には“やる自由”と“やらない自由”

があるということでした。そしてまた“やる自由”には、やりたいことを最後までやりとおす

自由があり、さらにいつでも“やめる”自由があるということです。、

自分の生活の内容をどこまでもゆたかにひろげていく自由が一方にあり、他方には自分の生

活をいくらでも貧しく、みじめなものにしていく自由もあるという、おそるべき自由の本質に

気づいたのです。

子どもたちの生活をみていると、そうした二つの自由が原型のようにして、私たちの目の前に

あらわれてくるのです。

「ぼく、やりたくない」「できないもん」といって、何もかも投げだしてしまい、すべてのこ

とに全面降服といった無気力な子どもをみていると、腹がたってきます。

何に対して腹がたつかというと、そういう子どもに仕たてあげた親に対してです。

完全主義で、論理的で、理性的、計画的でインテリぶった親に育てられた子どもほど、無気力で

無意欲なのです。

すべて親の計画どおり、思いどおりの“お仕たて券つき”のような育て方をされてきた子ど

もは、何をやってもいい、どこへいってもいい、やりたいことを思うぞんぶんにやりなさいと

いわれると、何もできない子になってしまうのです。

指示や命令がないと自分の行動がはじまらない子ども、したいことが何もない子ども、こんな

不自由な子どもが意外に多いということに、気づいたのです。

かくてはならじとばかり、私たちは子どもの自由をひきだしていく保育の探求をはじめたの

です。

勝手にしろ!

「先生、おしっこにいっていい?」「先生、外へいっていい?」「先生、これやっていい?」とい

ちいち許可と同意を求めてくる子どもたちに、「うるさい!そんなこといちいちきかないで、

自分で決めろ!」とどなりっけたものでした。

何回かどなられているうちに、子どもたちはきかなくなります。自分で決めるという習慣が、

身についてきたわけです。

「先生、山で遊んでくるよ!」といって仲間と連れだってでかけていくようになるのです。

「先生、○○つくりたいから材料くれよ」とか「あしたまでに用意しといてくれよ」という

ような要求がだせる子どもになっていくのです。

そうなってくると、今度は教師のほうが忙しくなってくるのです。だれとだれがどこでどんな

ことをしているかということを、握っていなくてはならないわけです。そして、それぞれの子

どもたちが今やっていることがなんであり、どんな意味をもっている活動であるのか、それが

どんな方向に発展していくものであるのか、どこでいきづまりそうであり、どこで助けや指導

をしたらいいのか、教師のアンテナはフル回転し、もっている能力のすべてを絞りだして対応

していかなければならないのです。

子どもたちが勝手にやりたいことをやるというのは、じつにたいへんなことなのです。

しかし、幸いなことにというか、あたりまえのことというか、幼稚園というものは、そんなに広

くはないのです。だいたい、今、自分のクラスの子どもたちが、どこで何をしているかというの

は、けんとうがつくものなのです。

それにクラスの子どもが、ひとりひとり全部違うことをやっているなどということは、ありえ

ないのです。ごく自然に仲間ができ、傾向性の同じ子どもどうしでの交流がうまれて、群れを

なしているものなのです。

勝手にしろとはいっても、勝手気ままにいつのまにか家に帰ってしまうというようなルール

のない生活を許すわけではないのです・

子どもの社会には、子どもなりのルールがあります。人間としてうまれ、育ってきた数年間に

身につけてきた社会生活に必要なルールを、子どもたちはそれなりにもっているものです。

個人差もあり、かなり、身勝手でわがままな子どももいます。しかし、そうした個々の子どもの

もっている“人間らしい感覚の育ち”が、園生活を支える基盤なのです。

個々に、違うものをもつ子どもたちが、ともに集まり、集団生活をいとなんでいくとき、そこに

起こるひとつの作用があります。それは、ともに育てあう関係作用です。ひとりひとり違うか

らこそ、ときにぶつかりあいも起こり、激しいけんかもうまれます。

しかし、子どもたちが“地”をだしあってぶつかりあい、本音でつきあえる関係をつくりだし

ていくためには、園生活の初期において、自由な生活、勝手気ままな自由遊びの生活、自分の好

きなことに遊びほうける経験が、ぜひとも必要なのです。

個と集団

ひとりの人間の個性というのは、まわりのひとびととの社会的な交渉のなかではじめてあき

らかになってくるものです。ひとりしかいない生活のなかでは、個性というものは存在しませ

んし、だいいち個性が育ちようもありません。人間とは、社会的な人間関係のなかでそれぞれ

が自分の個性をつくりだしていくものなのです。

子どもたちの生活をみていると、そのことがじつにはっきりしてきます。

子どもとは本来自分勝手な存在です。子どもの世界というのはすべて自分中心にまわってい

ます。自分が自分の生きている世界の中心なのです。それがあたりまえであり、そうでなけれ

ばならないのです。

子どもは何よりも先に自分の世界をつかみ、自分の世界の中心にならなければいけないので

す。自分が自分の生活の主人公であるという感覚こそ、将来子どもがおとなになって自分の個

性を十分に発揮して、自分にもっともあった職業を選び、自分にもっともふさわしい相手と結

婚し、自分がほんとうに納得できる人生を生きていくことのできる“自立した人間”“主体

的な人間”として生きる土台であります。

赤ちゃんのとき、おなかがすいて泣くとすぐお母さんがおっぱいを飲ませてくれた体験、乳児

のころころんで泣いたとき、お母さんがだっこしてなぐさめてくれた体験、みんな子どもが自

分の生きている世界は自分が中心であるという感覚を獲得していくための欠かせない基礎体

験でした。

幼稚園にはいって、子どもがだれにも干渉されないで自分のやりたい遊びに熱中し、やりたい

だけ集中できるという体験もまた同じ意味をもっています。

子どもは自分自身の生活の中心であり、主人公でなければならないのです。そこには子どもど

うしの関係も、子どもと教師の関係もはいりこむすきまはありません。

子どもはまずひとりでなければならないのです。自分ひとりの遊びに熱中し集中するという、

自分だけの世界、自分が世界の中心であるという生活体験のできる世界すなわち遊びの世界

をもつことの意味は、私たちおとなが、想像するよりもはるかに深く、大きいのです。

自分ひとりの世界をもたない子どもは、心にひずみをもつ子どもとして育っていくことにな

りやすいのです。

自分に安定し、自分に自信をもつと子どもは“外に”むかって旅だっていきます。自分以外の

人やもの、できごととのであいの世界、すなわち社会的な関係のなかへでていくのです。

そこにはいろいろな人がいます。親、教師、仲間、近所の人、親類の人などさまざまな人間関係

のなかへ、子どもははいっていくのです。

その典型的なものが幼稚園です。子どもはそこでじつにたくさんの人やもの、できごとにで

あっていきます。

私たちは、子どもをあまり早く集団化することを好みません。子どもはひとりひとりばらばら

であって、それぞれが自分勝手に好きなことをしたいだけしたらいいと思っています。そこか

らしか子どもの出発点はないのです。

しかし、個の充実をはたした子どもは必然的に仲間に目をむけていくのです。

ひとりの遊びに充足した子どもは仲間を求めていくのです。そこから子どもの社会化がはじ

まります。子どもの社会化とは子どもの人間化なのです。

子どもたちはやがて自分の今したいことはこれなんだけど、グループやクラスではみんなで

取り組んでいる活動もある、だから自分のしたいことは後まわしにして、今はみんなと一緒に

やろうというような自己抑制ができるようになっていくのです。

個の要求と集団としての要求とをはかりにかけ、今自分が選ぶべきことは何かを考えて、主体

的に行動できる子どもになっていくのです。もちろん、すんなりとそうなっていくわけはあり

ません。そこには、育てあう子ども関係のなかでのさまざまな紆余曲折があります。

しかし、個の充実を十分に味わっている子どもたちは、集団での一斉活動においてダイナミッ

クなエネルギーを、発揮していくことはたしかな事実です。

2 進び場づくり

遊び場づくリ

私たちは、子どもたちの遊びを、もっともっと楽しいものにしたい、そして、バラエティーにと

んだものにしたいと思いました。そんな目で遊びをみ、また、遊具などをみなおしてみると、既

製の遊具にはなんとなくものたりなさを感じたのです。とくに鉄パイプ製の遊具がもってい

るつめたさや、いかにも規格にはまった“よそよそしさ”が気に入らなくなりました。

そこで、自分たちで遊び場をつくろう!ということになったのです。

直接のきっかけは、第一章の「集団の力」でも述べた“セメントの馬”づくりでした。子ども

たちがセメントをつかって、こわれないものをつくりたいといいだしたのです。何日もかかっ

てできあがったのは、ウマだかキリンだかどちらともつかない代物でしたが、白ペンキを塗っ

て仕上がったときは、みんなで「バンザイ」をしました。以来二十年たっても、今子どもたち

の、遊びをさそう遊具のひとつです。

二人、三人で、馬にのったり、飛び降りたりしながら、何とはなしにそこでつくられていく子ど

もどうしのかかわりややりとりを、私たちは、とても大切なことと思うのです。

以来、セメントの怪獣づくりや、木工によるすべり台、船づくりそのほか、子どもたちと教師、

ときには、仕上げはお父さんたちにお願いするなどして、自分たちで遊ぶものを、自分たちで

考えてつくる、ということが、あたりまえのこととして、園のカリキュラムのなかに定着する

ことになったのです。

“つくって遊ぶ”“遊びたいからつくる”ということが、園生活において、子どもたちが何か

をはじめるときの、当然のパターンとなりました。

たとえば、三歳児の場合、園に慣れ、自分の生活が安定してくると、まず最初にやりはじめるの

はどろんこ遊びです。

思うぞんぶんにどろんこ遊びをして、水をふんだんにつかって、汚れまくるのです。そのうち

にどろだんごづくりや、砂のプリンづくりなどに移っていきます。子どもの心のなかに“何か

をつくりたい”という思いが、自然に湧きあがってくるのでしょうか。あるいは、思うぞんぶ

んにどろんこ遊びをするなかから、しだいに焦点がしぼられてきて、全身的な、ただ汚れるだ

けのくり返しの活動から、もっと意味のあるものをつくりたいという価値への要求がうまれ

てくるのでしょうか。

大きなシャベルをつかって、穴を掘ったり、池をつくったりする遊びから、ごく自然に手の指

を細かくつかって、どろだんごをつくったり、型ぬき式のプリンをつくったりする遊びにすす

んでいくのです。そうして、二人、三人ときには、もっと多くの子どもたちが、だんご屋さん

ごっことか、ブリン屋さんごっことかという、かかわりのある遊びに発展していくのです。

“つくる”という活動、つくって遊ぶという活動のパターンは、こうして必然的に、子どもた

ちの仲間関係をうみだしていくものなのです。

遊びきる子どもたち

子どもたちは、仲間とかかわりながら、じつにさまざまなことを学んでいきます。どろんこ遊

びも五歳児が加わると、じつにダイナミックなものになっていきます。

自分たちの背よりも高い山を積みあげ、腰までつかってしまう深い池をつくり、長いトンネル

を掘ったりして、三歳児や四歳児を驚嘆させてくれます。“隊長”のような子がいつのまにか

、みんなを指揮しはじめ、「おい、水くんでこい」「おい、そこは掘っちゃだめだぞ」「ここと

、ここは掘れよ」などと命令したりします。

水くみ係は、せっせとバケツで水をくんできます。「よし、こっから流すぞ」と、“ダム”と命

名した上のほうから、ビニールのといなどを斜めに渡したりして、ザァーと流すのです。

「ワァーッ!」と池に浮かべた木片の船などが、ひっくり返るのを喜んだりしながら、砂遊び

が盛大に展開していくのです。

昭和三十七、八年ごろだったと思います。

そんなぐあいに、夢中になって遊んでいる子どもたちが、“お集まり”の時間(午前十時ごろ)

が近くなると、ひとりぬけ二人ぬけで、いつのまにか、三~四歳の子どもたちや、まだ時間につ

いての感覚がそれほど、鋭くなっていない五歳児だけが残されてしまい、合図とともにあとか

たづけをやらされることになるのでした。そんなとききまって、それまでそこにかかわってい

なかった五歳児たちが通りかかって、みんなで積みあげてきた大きな山を、無残に踏みつぶし

てしまうのでした。

その二つの光景は、じつに心の痛むできごとでした。ときには砂場に立て看板を立て、「これ

は○○組のつくった山です。こわさないでください」などと訴えたりもしましたが、なかなか

うまくいきませんでした。子どもたちも、「チェッ、もうお集まりか、つまんないの」といった

ぐあいで、そのとたんに遊びが投げやりになり、それまで遊びの中核になっていた子どもたち

が、せっかく、楽しそうにできあがってきたのを、自分からこわしてしまったりしたものでし

た。

私たちは、子どもたちのそのくやしさ、むなしさ、痛みをどうやって、解決できるのか、そのよ

うな破壊行為のもつ意味や、朝の集まりの意味などについて、話しあいました。その結果、朝の

集まりとクラスの礼拝は、子どもたちの遊びに区切りがついたときをみはからって適宜おこ

なうことになりました。

それまでは、朝の十時になると、かならずなっていたチャイムと、それに続く体操のレコード

放送はなくなりました。

子どもたちの遊びを大切にするというのは、子どもたちの遊びが、子どもたちひとりひとりの

人格の表現であり、子どもなりの文化創造のいとなみであるということを認め、途中で分断し

たり破壊するのは、人格否定、文化否定であるという結論に、到達したのです。

それに、遊びきることの大切さを、私たちは実感したのです。遊びがもっとも盛りあがり、充実

したころに、“お集まり”(マイクの声)という“悪魔の声”によって、いっさいが無になると

いう体験は、子どもの人格発達にとって、きわめて望ましくないということです。そういう、ニ

ヒルな体験を毎日のように、くり返していけば、主体的、自主的な子どもは絶対に育つはずが

ないという確信を、もつにいたったわけです。

子どもがかわってきた

私たちが、ほんとうに子どもたちの遊びを大切にしはじめると、子どもたちの遊びも生活に対

する態度も、目にみえてかわってきたのです。それまではおとなの決めた“時間”がくると、

子どもたちは遊びを放棄し、あきらめていました。

そこには、「チェッ、つまんないの!」という捨てばちな、そして、投げやりな態度がめだちま

した。それだけではなくて、他人のもの、他人の遊びについても無責任に干渉したり、こわして

しまったりというような攻撃的、破壊的な態度が多かったのですが、自分の遊びを十分に堪能

できる子どもは、自分の遊びを大切にすると同時に、他人の遊び-他人の大事なもの-を大切

にする心が、めばえてきたのです。

また、自分の大事にしている遊びをこわされたり、干渉されたりすると、それまでは、“どっち

でもいい”遊びだったために、さほど固執することなく、さっぱりとあきらめたのですが、今

度は本気になっておこったり、けんかしたりするようになってきたのです。いわゆる、自己主

張が強くなってきたのです。自分に対しても、相手に対しても、きびしさをもつ子どもが育っ

てきたのです。

「僕は、これがしたい」という自分の要求をはっきりもち、それをやりぬいていこうとする意

志をもち続ける子どもがふえてきました。そうなると、教師が決めた時間に、決められたこと

を、決められたとおりに“やらせる”というかたちの保育は、できなくなってきたのです。

子どもにとって必然性のあるものでなければ、子どもはのってこないようになってきたので

す。十分に魅力のある遊びや活動でなければ、子どものものにならないということに、なって

きたのです。

教師中心のなんでもかんでも、一方的に計画したことを、一方的に命令し、強制的にやらせる

式の保育では、子どもがいうことをきかなくなってきました。

おしきせの定食保育よ、サヨウナラということになったのです。

東京オリンピック

昭和三十八年、東京オリンピックがおこなわれました。しかし、このころから、子どもたちのよ

うすがかわってきたのです。

野原や山林がどんどんなくなり、おまけにテレビの普及、学習塾の流行、そして進学競争の過

熱化などとあいまって、子どもたちの生活に革命的変化が起こりました。それは、子ども社会

の崩壊と、子どもの遊びの崩壊でした。

ガキ大将はいなくなり、みんなテレビや学習塾に吸い取られていきました。子どもたちは孤立

し、ひとりぼっちになり、プラモデルづくりやテレビマンガのとりこになりはじめました。

子ども社会の遊び集団は、急速になくなっていき、運動不足と栄養過多の肥満児や、驚くほど

かんたんに骨折してしまう、虚弱児たちがどんどんふえてきたのです。みるからにもやしのよ

うな子どもが多くなりました。

これは子どもの危機だ、と感じたものです。私は、東京オリンピックで活躍したゴールドメダ

リストたち“小野喬・清子夫妻、三栗、遠藤氏がはじめた、スポーツクラブに通いはじめました

四十歳にまぢかくなった私は、中学生たちにまじって、東京駒込の女子聖学院の体育館で、毎

週三回、夜の練習に通いました。そして約一年後、ゴールドメダリストたちを招いて、スポーツ

クラブをはじめたのです。

幼児から小、中学生、お母さんたちまで含めて、スポーツフィーバーをまき起こしてやろうと

いうねらいは適中し、ずいぶん多くのひとびとが参加してくれました。

幼児期から、組織的な体力づくりをするべきだという信念のもとに、体育の時間を設け、体育

大学の学生たちの協力をえて指導に取り組んだのです。たしかに、多くの子どもたちは、から

だを動かすのは好きですし、喜んでやっていました。しかし、二、三年するうちに、またもや私

は悩みはじめたのです。

「これでいいのか?」という悩みがもやもやとまき起こってきました。

からだを動かすことは、たいへんよいことです。運動するのは、すばらしいことだし、必要なこ

とです。しかし、幼児期における体育指導のほんとうのあり方とは、どんなものであるべきな

のか。やがて私は、ゴールドメダリストの体育指導と別れをつげる決意をしました。幼児期の

体育指導、運動遊びの指導は、やはり個々の子どもたちの自主的、立体的な興味や関心にもと

づくものでなくてはならない、命令や指示によって、強制されるかたちの指導は、もっとずっ

と後になっておこなわれるべきだという結論でした。

その後、神戸のYMCAを中心に、デンマーク体操などを日本に紹介した甲南女子大学の水谷英

三氏にであい、彼が創業したサーキット遊び方式の体育指導をとり入れることにしたのです。

サーキット遊び方式の運動遊びは、子どもの自由な発想や思いつきをひきだしながら、子ども

が自分なりに、自分自身の課題に挑戦していくことのできる、すぐれた指導理論だと思います

小、中学校式の直線的な順番待ちの指導では、幼児はあきてしまって集中することができませ

ん。運動することよりも、待つことや、忍耐することを学ぶような、運動遊びの指導は、幼児む

きではないのです。子どもをきたえるのは教師や指導者ではなくて、けっきょく、子ども自身

であることに気づいたわけです。子どもが興味をもち、意欲をもって自分自身の課題として運

動遊びに挑戦していくような環境と条件をつくっていくことが大切なのです。そうすると、子

どもたちは、ほうっておいても動きだし、やりだすのです。

ここ十数年、子どもたちは、ドッジボール遊びをまるで伝承遊びのように年長児から年中児に

伝えて、夢中になってやっています。なんでもいいのです。子どもたちが、仲間とともに夢中に

なって取り組める遊びがあることが、大事なことなのです。

そこで子どもたちは、じつにみごとに育てあい、支えあう仲間づくりをしながら、同時に、自分

をきたえ仲間をきたえているのです。

自分できたえる

子どもたちは、そこに自分の挑戦したくなるような“何か”があれば、かならずといっていい

ほど、それにたちむかって行動を起こしていくものなのです。

セメントでつくった馬があれば、それにのって遊びはじめるのです。すべり台をみれば、の

ぼっていって自分ですべってみるのです。子どもとはそういうものなのです。

私は幼稚園での子どもたちの生活ぶりや遊びぶりをみつめているうちに、ひとつの大事なこ

とに気づいたのです。

それは、子どもたちに「ああしろ、こうしろ」と指示や命令を与えるかわりに、子どもたちが

やりたくなるような環境や条件をそろえていくこと、そして何もいわずに子どもたちが自分

でやりはじめるのにまかせるということです。子どもたちは自分で自分の“やりたいこと”

や“やれること”を発見し、自分で自分の行動を選び、決定していくのです。

この自己選択と自己決定による自発的な遊び行動の開始こそ、子どもたちのこれからの長い

生涯を決定していく、かけがえもなく大切な意味をもつことがらなのです。

人間はだれしも、自分の人生を自分で生きるように決められているのです。自分の人生を他人

にかわりに生きてもらうなどということはできません。しかも、自分の人生というのは自分に

とってただ一回しか生きることのできないものです。そのただ一回しか生きられない自分の

人生を、自分自身のものとして、自分自身の意志と責任において生きるのが、人間にとって

もっともふさわしい生き方であるはずであります。

子どもは幼児期の、いわば自分を自分のなかで発見し、自分を自分らしい自分にしていくため

の、人生での最初の試み-自分への挑戦を試みようとしています。

そのとき、おとなの指示や命令、強制、条件づけなどはなるべくないほうがよいのです。

子どもは自分で自分のやれること、やれないことを発見し、気づいていけばよいのです。もち

ろん、そこにおとなの干渉が皆無であるはずはないのですが、それはできる限りひかえめで、

子どもの自主性や自発性をおし殺すようなものであってはならないのです。

子どもは目の前にあるさまざまなものに挑戦しながら、自分の体力の限界や技術的能力の限

界をおしひろげようとしているのです。子どもは遊びという自由で、気ままとしかみえないよ

うなふるまいのなかで、じつは自分の全身全霊をうちこんで、自分自身と格闘しているのです

いわば自分の外から与えられたものではなくて、自分自身の内側からわきあがってくる意欲

に支えられて、子どもは自分自身に課題を与えて挑戦しているのです。

そのような真剣な自分との取り組みの姿勢を私たちおとなは、じっとみつめてやり、支えてや

るべきなのです。

子どもは自分で自分に気づき、自分を発見し、自分をつかみとっていくのです。

子どもは自分で自分をきたえ、自分を拡大し、自分を強くしていくのです。

ですから、子どもたちが自分の手足を十分につかい、いきいきとして夢中になって遊びにうち

こんでいるとき、おとたはよけいな口だしをしてはいけないのです。

それは子どもたちの聖域であります。アンタッチャブルな侵してはならない聖なる領域が、子

どもの遊びなのです。

誇りたかき五歳児

遊び場づくりに本格的に取り組みはじめた昭和五十二年ごろから、私たちは五歳児のもつ教

育カに注目しはじめました。

その数年前からペアクラスとして、五歳児と三、四歳児のクラスをひとクラスずつペアで組み

あわせ、年間をとおして交流しながら育てあう子ども関係づくりをすすめてきました。

しかし、なんといっても木造の遊び場づくりをしていくなかで、五歳児たちが丸太づくりの遊

具を自由につかいこなし、さまざまなつかい方を三、四歳児たちに“みせて”いくことが、運

動遊びや集団遊びなどのモデルになることを今さらながら痛感したのです。

五歳児の教育力をフルにひきだし、伝えあい育てあう関係を築いていくことが、めばえの保育

における主要なテーマになりました。

四月の入園当初、泣いて家に帰ろうとする三、四歳児を門のところでみはっていてつかまえて

、それぞれのクラスに連れていく活動からはじまり、秋の小林牧場への徒歩遠足では三、四歳

児の手をひいて往復六キロ歩くのですが、疲れてくじけそうになる年少児にあれこれと話し

かけたり、歌をうたってあげたり、はげましたりと懸命になってめんどうをみている五歳児を

みていると、胸がつまるほどの感動をおぼえます。

五歳児たちは、三、四歳のとき同じようにさまざまなかたちで年長児に世話になってきている

のです。それは義理だとかおかえしだとかといううす汚れたおとなの感覚ではなくて、人間と

しての純粋な愛の行為です。年長児がごく自然に年少児のことを思いやる、その心の育ちを私

は大事にしたいのです。

秋から冬にかけて年長児のドッジボール遊びがさかんになります。一、二月には、年長組のク

ラス対抗のトーナメントがはじまるのです。

四歳児たちも五歳児のドッジボールに入れてもらってしごかれています。「おいっ、あまり強

くあてるなよ」などという規制をしあったりして、年長児は四歳児を包みこんでいくのです。

「あの子のボールは絶対受けるなよ。逃げたほうがいいよ」とか「足をねらえよ、顔はだめだ

ぞ」などという“指導”がなされています。そうした手ほどきをうけた四歳児たちが、自分の

クラスにもどって、ドッジボールをはやらせていったりするのです。

クリスマスに年長児がうたうカロルやページェント、卒園行事のお別れ会のごっこ遊びなど、

集団のダイナミックな活動やびっくりするような迫力のある大きな共同製作物など、すべて

の活動が年少児たちのモデルになっていくのです。

年長になったらあんなことができる、やってみたいという、たしかな目的意識や期待感を年少

児たちは胸にいだいて年長になっていくのです。

三歳児たちが、三学期に年長児を招いてお店屋さんをやりました。

何日も準備をして、いろいろな品物をつくりました。三歳児ですからそれほど集中して作業を

したわけではありませんが、さまざまな素材をつかい三歳児なりの発想や気づきをつみあげ

ながらすてきなお店ができました。

五歳児たちは、喜んでお店に招かれ品物を買ってくれました。

「先生、僕のつくったケーキ、○○組の○○ちゃんが買ってくれたの。みにいこう」などとわ

ざわざ年長のクラスに教師を案内してくれる三歳児の喜びようをみていると、三歳児がそこ

まで客観化のプロセスを積みあげることができるのは、じつは五歳児が年間をとおしてさま

ざまな交流をしながら、三歳児を育ててくれていたという事実を認めざるをえないのです。

教師による指導よりも、子どもどうしの育てあうカのほうがはるかに事物にそくし、子どもの

本質に根ざした人間らしい発達をうながすことになるのです。

五歳児は三、四歳児の発達モデルとして欠くことのできない貴重な存在なのです。

五歳児がいなければ園の遊び文化も生活文化もほとんど伝統化することはできませんし、年

少児に伝承されることもなくなります。それこそ味もそっけもない、子どもが生きているとい

うエネルギーも感じられない、死んだような園しかないことになるのです。

三歳児は、保育の原点であり、五歳児は園の宝なのです。

五歳児就学などという発想が、どれほど子どもの現実から遠くはなれた、非教育的、非人間的

なものであり、子どもの生活や文化を根底から破壊するものであるかを、確認しておきたいと

思います。

3 ほんものとのであい

ウィーンの先生

昭和四十三年の夏、国立音楽大学の伊達良先生にすすめられて、同大学でおこなわれたウイー

ン音楽院の特別セミナーに参加しました。週三回、七週間、計二十回におよぶ講習会に片道二

時間以上かかって国立まで通うのは、そうとうきついことでした。

受講生はほとんどが音楽の専門家ばかりでした。幼児のための音楽教育というテーマで、約五

十名の参加者のうち、素人は私だけのようでした。

指導者はポップ女史で、国立音楽大学付属小学校の低学年児童十名ほどが実技指導に協力し

ました。通訳を通しながらの授業はなみたいていの苦労ではなかったと思われましたが、ポッ

プ先生の授業は楽しくて、二時間あまりの実技指導はあっというまに終わってしまうのでし

た。

オーストリアの子どもの歌やじつに単純なメロディーによる指導が、千変万化しながら子ど

もたちの興味をひきつけ、あれよあれよというまに、びっくりするようなゆたかな内容のある

活動に展開していくのは、目をみはるような思いでした。

講習会の最終日、ポップ先生との懇談会がもたれ、参加者からいろいろな質問がだされました

そのなかで印象的だったのは、日本の音楽教師たちのもっているひとつの共通項なのでしょ

うか、ポップ先生の授業につかわれた教材について教科書がほしいという要求でした。それに

対してポップ先生の答えは、じつにみごとなものでありました。

「私が今回、この講習会で用意した教材は、毎回、実際につかわれたものの何倍もの量があっ

た。子どもたちの反応や興味の度合いに応じて、そのときどきに教材は取捨選択されていくも

のだ。だから、今回の指導につかわれた教材をすべて印刷するとしたら、おそらく数千頁にお

よぶようなぼう大な教科書になるだろう。そんなことよりも、子どもたちの興味をしっかりみ

つめながら、教師は自分自身で教材を発見し、つくりだしていくことが大切なのです」という

ような言葉でありました。

子どもとともにつくりだしていく教材、教科書、そして授業という考え方です。

私は「これだ!」と思いました。教科書によりかかっている教育はほんものではないのです。

教科書を教える教師はダメ教師なのです。子どもたちの具体的な活動をてがかりにしながら、

子どもたちとともに教科書をつくりだしていくのがほんものの教師なのだと、実感したので

す。

そして、それはたいしてむずかしいことではなくて、子どもとともに生き、子どもとともに生

活をしていくなかで、子どもたちから学び、子どもたちから発見していくことであり、さらに

発見したものを組織的に組みたてていくことなのです。

たいして、むずかしいことではないといいましたが、それは子どもの側にたちうる教師にとっ

てであって、子どもとむきあい、子どもよりも高いところに立って、“指導してやろう”“

ひっぱりあげてやろう”という教師根性や指導意識にこりかたまった人にとっては、たいへ

んむずかしいことだといわざるをえないのです。

音を楽しむ

音楽とは、“音を楽しむ”ことです。ところが、実際は“音が苦”の音楽だったりするのはな

ぜでしょうか。

昭和五十年から五十六年まで、私たちは毎月一回水曜日の午後、国立音大の伊達良先生から音

楽を楽しむための講義と実技の指導をうけました。音楽の専門家として、数多くのオーケスト

ラを指導し、音大の学生を育ててきた伊達先生にとって、幼稚園教師の音楽性と音楽的能力の

現実は、まさに驚きであったことでしょう。

「先生方は、ピアノがどんなにじょうずになってもかまわないんだよ」という、伊達先生の言

葉は忘れることができません。楽典の勉強からやりなおしをし、移調、転調、作詞から作曲の仕

方にいたるまで、それはじつに涙ぐましい努力の連続でありました。

ある教師は、伊達先生の講座のある水曜日は、朝から胃が痛くなると、ぽやいたほどでした。

数年にわたる勉強の結果、私たちはたくさんの子どもたちの歌をつくり、それらを園生活のな

かでうたうことになりました。子どもの生活のなかからうまれてきた歌、子どもがふと口にし

た言葉からうまれた歌など、子どもたちが自分の歌として喜んでうたえるもののようです。

そうしたきびしい体験のなかから私たちが学んだものはたくさんありますが、ひとつは、日本

の音楽教育の課題とすべきことでした。

それは学校教育のなかでの音楽が、かならずしも音を楽しむ教育ではないのではないかとい

うことです。楽典を教えるにしても、ただ形式的にそのようなものとして、単なる知識として

教えこまれてきたために、生きた知識として残っていないのです。

ピアノのレッスンにかならずつかわれているバイエルにしても、ただ機械的に運指やタッチ

をいじりまわされ、職人のように弾かされることだけで通過してしまい、ひとつひとつの曲が

もっている音楽的な意味や前の曲と次の曲とが構造的にどのようなかかわりをもっているか

、などをあきらかにしながら、体験的に楽典を理解していくというような指導はあまりおこな

われていないのではないでしようか。

めばえの先生たちの苦しみを目のあたりにしながら、私は日本の音楽教育の根本的な改革が

必要なのだと痛感したのです。

また、音楽を教えるのにやたらとピアノやオルガン、そのほかの楽器をつかいたがるのも、誤

りのひとつです。子どもたちひとりひとりの声に耳をかたむけ、口うつしに歌を教えることの

大切さを忘れてはならないのです。

大勢で声をそろえてうたうのはけっこうなのですが、それに教師のピアノが加わったら、もう

いけません。ひとりの声は打ち消され、つぶされてしまって、“みんなの声”になり、さらにピ

アノの音がかぶさって、どうにもならない雑音のかたまりになってしまうのです。

ひとりの声が大事にされ、ひとりの声がみがかれ、美しくされることなしに“歌声”は育たな

いのです。そのためにも、ピアノのような大きな音をだす楽器は最少限度につかわれる必要が

あるのです。

教師の耳がひとりひとりの子どもの声を“きいて”口うつしに子どもの耳に美しい音を伝え

ていくこまやかないとなみなしに、音を楽しむ子どもは育たないだろうと思うのです。

陶芸と子ども

秋になると、園庭は落ち葉でいっぱいになります。

サクラ、ナラ、イチョウ、ポプラ、スギ、キリそしてマツなど数百本の樹木から落ちる葉が毎日

山のように集まるので、秋から冬にかけて連日たき火のまわりは子どもたちでにぎわいます。

秋のいも掘りで収穫したさつまいもを、毎日たき火のなかにほうりこんで焼きいもをつくり

ます。

何年前のことだったでしょうか。どろだんごを、たき火のなかにほうりこんだ子どもたちがい

ました。翌局、灰のなかから拾いだしたどろだんごはカチンカチンの石みたいな、すてきな焼

きものの玉になっていました。しばらくのあいだ、この野焼きの玉づくりは大流行したのです

園庭の斜面には粘土のとれる場所があって、せっかく植えたサツキやツツジ、ツバキなどの根

元が子どもたちにえぐられてしまいます。

そのとき、私は子どもたちに陶芸をやらせたいと思いたったのです。

手賀沼畔に登り窯を築いておられる陶芸家の岩村福之先生にお願いをしたところ、御子息の

守先生が昔の父兄であったことから、快く指導をひきうけてくださり、ガス窯を設計、瀬戸市

の業者に製作を頼み、昭和五十二年の夏園庭に据えつけることができました。守先生からひと

とおりの講義をうけ、福之先生の愛弟子である森本兄の実地指導によって、まずは教師たちの

陶芸修業がはじまりました。

手びねりで積みあげていく粘土の感触はなんともいえぬ心地よいものですが、作品となると

なんとも気に入らぬものばかりができあがってくるのです。

子どもたちに粘土を準備するための“キク練り”なども何年かの修業がいるのです。汗を

びっしょりとかきながら、必死に練りあげて粘土のなかから空気をぬいていくのですが、まっ

たく何をやるにも年季のいることをつくづく痛感させられました。

いざ子どもたちに粘土を与えてみて驚いたことは、子どもの柔軟さと自由さでした。子どもた

ちは何の抵抗も感じることなく、自分の思うような作品をごくあたりまえのようにつくって

いくのです。子どもたちの指の柔かさがそのままできあがった作品を包みこんでいるのです。

心の自由さが、そのまま作品の姿全体に、おおらかにそしてのびのびと表現されているのです

それは、じつに深い感動的なであいなのです。

とくに夜遅く、窯のなかの温度が千二百度近くあがったときの、のぞき穴からみる窯のなかの

光景は何ともいえず美しいものです。子どもたちの作品が純白に近く白熱した光のなかで幻

のように輝いて燃えあがっているのです。まるで夢をみているような、限りなく美しい世界が

そこにあります。

窯の番をしてくださる森本元と「一度でいいから、子どもたちにこの火をみせてやりたいで

すね」と話したことです。

しかし、あまりにも危険なので、この夢幻にふれる喜びと感動は火をたくものだけの専有にし

てあります。

子どもと絵

十数年前、私と家内とでヨーロッパに旅行した際、パリの画廊でシャガールのリトグラフに魅

せられて手に入れたのがきっかけとなり、その後、何回かのヨーロッパやアメリカヘの旅ごと

に、ダリであるとかミロらのリトグラフや銅板画を収集することになりました。

とくにダリの作品は十数点集まりました。

主に宗教的なテーマの作品ですが、私はそれらの作品が子どもたちの日常生活のなかで、身近

にあり、いつも目にふれていることに意味があると思っています。子どもたちの感覚や感性を

育てるのは、言葉によるはたらきかけではなくて、環境そのものだと思うからです。

子どもをとりまく環境が子どもの心を彩り、感覚-センス-を育てていくのです。おとなたち

の目つき、身ぶり、手のあげ方やおろし方、口のきき方から歩き方、ちょっとしたしぐさからお

となどうしの対応の仕方など、子どもの感性を育てる条件をかぞえあげたらきりがありませ

ん。

とくに、環境のなかにおかれている絵や調度品の色調や形が、子どもたちの心に語りかけてい

く力の大きさは、はかりしれないものがあります。

「住は人をつくる」と昔の人はいいましたが、子どもがどんな空間で生活するかということ

は、私たちおとなには想像のできないほど、巨大な意味をもっているのではないでしょうか。

ですから、私たちは子どもに与える絵本や視聴覚教材にしても、それを製作したおとながほん

とうに心血をそそいでつくりあげたものを選んでいきたいのです。

子どもだから、安直なものでまにあわせておいていいということは、絶対にないのです。

良心的な子どもの絵本をだし続けている、ある出版杜の話をきいたことがあります。

一号何十万円かで売れている画家が描いた絵にケチをつけて、これではまだ原作の話が表現

しきれていないと批判し、顔をひきつらせている有名画家に描きなおしを迫っていくという

編集者のきびしさに、その秘密があるということでありました。

ひとつの場面をそれほどまでに大切にし、子どもたちのために今、おとながなしうる最大限の

努力をしていくという姿勢のなかから、子どものためのほんとうの文化がつくられていくの

だと思うのです。

園のあちこちにさりげなくかけられている絵の一枚一枚にも、子どもたちが人間としてゆた

かに育っていってほしいという願いがこめられているのです。

ある年、イタリアのローマ市郊外の小さな私立幼稚園を訪問したとき、その保育室のカーテン

の色あいのよさ、壁にかけてある小さな絵や花を生けてある花瓶のセンスのよさに圧倒され

たことがあります。

よくみると、天井からさがっている電灯のフードもカーテンと同じ素材の手づくりでした。思

わず「みごと!」とうなってしまったものです。

デリカシィー=繊細な感覚とはどういうことなのかを思い知らされた、忘れ得ぬ体験でした。

エミールとのであい

昭和四十三年から数年間、私たちは現白梅学園短期大学学長の田中未来先生をお迎えして、園

長、主任クラスの読書会をおこないました。

月一回水曜日の午後にもたれた読書会で、毎回数名のチューターによって読後の感想をまじ

えた報告がなされ、田中先生による解釈と講義をうけるという形式でした。

フレーベル、ペスタロッチ、エレン・ケイ、マカレソコ、ジュコーフスカヤ、ルソーなどずいぶん

たくさんの本を田中先生から紹介されて読みました。

たかでもルソーの『エミール』全巻をほんとうに徴にいり細にわたって読んだことは、私に

とって生涯忘れることのできない貴重な体験でした。

最近、『子ども・人間・社会-「エミール」との対話』という本を田中先生がおかきになりま

したが、そのなかで先生が語っておられる言葉のひとつひとつにこめられている人間への愛、

子どもへの愛の思いを私は十七、八年前の田中先生の講義を思い浮かべながら、今さらのよう

に深い感動をもって読ませていただきました。

私は工ミールの読書会をとおして、人間の教育としての幼児教育にあらためて開眼させられ

たと思っています。子どもを育てるということは、親や教師にとってまさに自分自身を育てる

ことであり、自分のなかにいかにして“人間的なるもの”を熟成させていくかにかかってい

ることを思い知らされたのです。

印象に残っていること、私の心に刻まれている場面を思いおこしてみると、ひとつは“しつ

け”のことです。

幼児から少年になろうとする時期、エミールはたとえどのような理由があろうとも、かんしゃ

くを起こしたりしたときに、家の下僕や召しつかいに対して暴力をふるったりすることを、絶

対に許してはならないというのです。自分より弱い立場にいるもの、抵抗することのできない

ものに対して暴力をふるうことを許してしまうことは、やがて彼が成人したときに平気で殺

人をおこなうような非人間的な育ち方をしてしまうというのです。

そのようなときには、断固としてエミールは体罰を含めたきびしいしつつをうけることにな

るのです。

もうひとつの場面は、夕陽の沈んでいくさまを教育者と子どものエミールがただ黙って言葉

もなくみいっているところです。

ルソーは、自然がわれわれに示してくれる美しさの前では、言葉もなくただぽう然として、そ

こにたたずんでいるだけでいいというのです。落日の美しさに心からの感動をおぽえている

おとなのそのままの姿が、子どもに感動とは何かを伝えることになるというのです。そこでお

しつけがましくあれこれの言葉を、子どもに語りかけてはならないというのです。

美しいものに感動して心を奪われているおとなのそのままの生きざまが子どもに伝わるので

あって、言葉によって感動を伝えようなどと思ってはならないというルソーの言葉に、私は人

間が育つということの本質を教えられたのです。

人間は言葉によってコミュニケーションを成立させ、言葉によってたがいの思いを理解しあ

うのですが、もうひとつ、言葉によらない世界、言葉のいらない世界、言葉があってはならない

世界、言葉以前の世界、すなわち感性によって生きる部分をしっかりともたなければ、人間ら

しい人間に育つことはできないということを学んだのです。

人間にとって言葉というものは、自分の考えていることを他人に知らせ、他人の考えを知るこ

とのできるたいへん貴重な道具であり、自分自身の内側に自分の世界をつくっていくために

も欠くことのできないものです。

にもかかわらず人間は、どれほどたくさんの言葉をもち、どれほどゆたかな知識をもっても、

それだけでは人間に“なっていく”ことはできないのです。

人間をして人間たらしめるものは、言葉をこえ知識をこえて、人間の内奥につくられていく直

観や洞察の力によって、他者の心と共鳴しあい、ひびきあいながらともに愛しあい、ともに生

きることを喜びとするような“心”であり、感性であると思います。

人間であるということや人間でありえたということは、けっして自明の、あたりまえのことで

はないのです。私が私という人間でありうるのはほんとうに稀有に近いありがたいことなの

です。

そして、人間が人間になっていくこと、人間であることにふさわしい人間になっていくという

ことも、あたりまえではないのです。

人間は、人間だけしかもちえていない心の世界、感性や愛の世界において、人間であること

を“選びとって”いかなければ、人間らしい存在にはなりえないものなのです。

私は工ミールをとおして、いや田中未来先生の“エミール”をとおして、人間を学んだのでし

た。

生活への開眼

子どもたちに“ほんもの”の生活や体験をさせたいという願いが、ほんとうにほんものに近

づいていったきっかけは、現幼年教育研究所所長の久保田浩先生とのであいがあったからで

した。

それまで、私たちはなんとはなしに“生活”という言葉を口にし、生活を大事にするなどと

いってはいましたが、生活とはいったいなんなのかといういちばん根っこのところを深くみ

つめていく“力”や意識が欠けていたのです。いわば生活という言葉に酔っていた私は、久保

田先生とのであいをとおしてみじんに砕かれ、たたきつぶされたのです。

生活なんてそんなあまいもんじゃない、もっともっとはるかにきびしく深く、そして遠いもん

だということ、はるかなたかみにむかって、求めて求めてつきつめていかなければ、みえてこ

ないものであることを先生から教えられたのです。

久保田先生におあいできたことによって、私は人間の教育への開眼をはたしえたのです。

幼児教育にかかわりはじめてから、私はフレーベルやペスタロッチ、ルソーなどの書物をむさ

ぼるように読んだのですが、それはある意味で理想をおいかけるような試みでした。

地に足がついてないということが、よくいわれますが、教育の理想について、そのあるべき姿

について、私は先人の言葉からたくさんのことを学びました。しかし、現場の、目の前にいる子

どもたちが毎日さまざまな姿をみせている、その現実の子どもの教育を、具体的にどうすすめ

ていくのかということになると、理想だけでは手も足もでないのです。

私は、久保田先生から教育の現場において、生きてはたらきうる手と足を与えられたと思って

います。

わが国の幼児教育における偉大な先駆者である倉橋惣三先生が提唱した「生活を、生活で、生

活から」という子どもの現実の生活を土台とした幼児教育の理想を、久保田先生はより理論

化し、構造化し、さらに生活化して私たちに示してくださったように思います。

もちろん、ベスタロッチやフレーベルら、幼児教育を人間の教育という視点から実践した先人

たちの道を、正しくひきついでいく路線の上にあることはまちがいのないことなのです。

私は久保田先生によって子どもの生活を、子ども自身の側にたってみることのできる目を開

いていただきました。フレーベルが「子どもに生きよう」といった言葉の真意を、久保田先生

の講義と生きざまとをとおして学びとることができました。ほんものに迫っていく道がよう

やく私にもみえ、ひらけてきた、その扉をひらいてくださったのは久保田先生でした。

先生は、日本の教育界における予言者であると私は思っています。久保田先生の教育思想は、

今後十年ないし二十年たてばあたりまえのことになっていくだろうと思います。先生が、昭和

二十六年に執筆された『日常生活課程』という本のなかでの教育実践は、まさに予言者とし

かいいようのないすぐれたものなのです。

世界の学校がそのような教育をするなら、いじめだとか校内暴力だとかという問題は絶対に

起こりえないという、教育のあるべき姿を先生は戦中から戦後にかけての時期に実践されて

きたのです。子どもとともに生きるということの生きた模範を、私は、久保田先生にみたので

す。

先生は昨年古稀を迎えられ、そのお祝いの会の席で「子どもたちをゆがめているものへの怒

りが、私をささえてきた」と語られました。子どもから“人間”を奪おうとするものへの怒り

と生命への畏敬の思いを、私も大切にしたいと思うのです。

ヨーロッパを旅して

昭和四十五年の夏、伊達良先生をリーダーにヨーロッパ音楽の旅に参加しました。ドイツのバ

イロイトとオーストリアのザルツブルクの音楽祭とがメインのすばらしい旅でした。

うまれてはじめての海外旅行で、しかも終生忘れることのできない感動的な旅でした。

南まわりでイタリアのローマに着き、市内観光をしました。

かの有名なローマ法王のおられるヴァチカン宮殿と聖ペテロ寺院を訪れたときの感激は、今

も忘れることができません。人間の手によってつくられたものの、あまりのみごとさに圧倒さ

れたのです。人間というのはなんとすばらしい力をもった存在であることかと、私は思わず涙

をこぼしました。

巨匠ミケランジェロがその生涯を捧げつくし、自らのもてるもののすべてをそそぎだして、ま

さに心血をそそいで完成した作品の前で私は言葉もなく立ちすくんだのでした。人間の偉大

さ、すばらしさに、私は目もくらむような感動と喜びを感じたのです。

そしてイタリアからスイス、オーストリア、ドイツ、フランス、イギリスと旅をし、バイロイト

とザルツブルクで音楽会にいきました。

夢のような体験でした。

バイロイトではワーグナーの「さまよえるオランダ人」というオペラ、ザルツブルクでは

べートーベンのフィデリオを観賞しました。言葉はまったくわからないのですが、悲しみのき

わまる場面では涙を流し、喜びの場面では心から楽しくなるのです。音楽のもつふしぎなカに

魂をうばわれるような思いでした。

その後、昭和四十八年、五十一年、五十三年と計四回のヨーロッパヘの旅、アメリカヘ四回、イ

ンド、韓国、台湾、フィリピン、中国、スリランカヘ各一回の旅を経験しました。

ヨーロッパやアメリカ、アジアの国々の幼稚園をずいぶんたくさんみてまわりました。まさに

ピンからキリまでいろいろな幼稚園がありました。

それらの体験をとおして、私はいつも自分の日本の幼稚園、自分の幼児教育をみつめなおす機

会を与えられてきたように思います。どの国の教育もその国の文化に深く根をおろし、自分た

ちの文化を土台として子どもを育てようとしているのです。

数年前、東京でおこなった国際幼児教育会議において、マレーシアからきた代表のひとりが、

日本に学ぶべきものは多い。しかし私たちは自分の国の文化をほんとうに大切にし、自分たち

の文化を子どもに伝えていく幼児教育を求めていきたいと、語った言葉を忘れることができ

ません。

ヨーロッパやアメリカの文化におし流されて、自分たちに固有の文化をどこかにおき忘れて

きてしまったような、今の私たち日本人の生活や考え方に釘をさされたような気持ちがしま

した。

マレーシアの代表はこうもいいました。

日本は経済的にはゆたかになったが、自然を破壊し、人間の心のゆたかさを失っているように

みえる。私たちはこれから国づくりに取り組んでいくが、すくなくとも日本の轍をふまないよ

うに努力したいと。子どもたちをゆたかな自然のなかで、のびのびと思うぞんぶんに遊ばせて

いくような幼児教育を追求していくのだと。

私たち日本の幼児教育にかかわるものは、マレーシアはじめアジアの友に深く学ばねばなり

ません。

イギリスにしてもスウェーデンやデンマークにしても、じつにのんびりとした幼児教育をお

こなっていました。日本の幼稚園はなにかデパートのバーゲンセールのように、せわしなくあ

れもこれもと子どもにおしっけてはいないでしょうか。

キリストが語った「なくてならぬものは多くない、いやひとつだけである」という言葉に秘

められている思い-人間が人間らしく生きるためになくてはならぬひとつのものをほんとう

に大切にしていく生き方-を、子どもたちとの日々の生活のなかで追い求めていくことが、私

の教育実践の課題であるということを、ヨーロッパやアジアの国々への旅から与えられた収

穫であると思っています。

ドイツのうんだ世界的な大詩人ゲーテ(一七四九~一八三二)が『ヴィルヘルム・マイスター

の遍歴時代』(一八二九)という作品のなかで「健康な子どもたちは、多くのものを身につけ

ている。自然はすべての人に一生涯必要なものをすべて与えた。-しかし、ひとつだけはうま

れながらではもっていない。しかし、人間があらゆる面にわたって人間であるためには、すべ

てがそれによって決まる-それは、畏敬です」とかいています。

いのちあるすべてのものに対する畏敬、人間をこえ、時間をこえた永遠なものに対する畏敬、

何よりも自分自身のうちにあって自分を自分たらしめ、たえずより遠くにあるもの、より人間

的な生き方にむかわしめていく“生命そのもの”への畏敬の思いに、子どもたちがその心を

開いていってくれることを祈らずにはいられません。それは“教えごと”ではないのです。

伝えることも示すこともできず、ただ子どもたちが、彼ら自身のどこかで、自分でつかみとっ

ていくしかないのです。

教師は子どもたちひとりひとりの未来に対して、謙虚な祈りを捧げうるだけなのです。

4 保育の発見

研究に取り組む

昭和三十七年ごろから、近隣の幼稚園の先生方が集まって「ときわ会」という研究組織がで

きました。松戸市の常磐平幼稚園、矢切幼稚園、清風幼稚園、柏市のくるみ幼稚園、みくに幼稚

園とめばえ幼稚園の六園の小さな出発でした。

一、二年のうちに野田市の清愛幼稚園をはじめ、沼南町の沼南幼稚園など国鉄常磐線沿線の幼

稚園が参加して、常磐地区私立幼稚園協会に発展し、盛んに研究会がおこなわれるようになっ

てきました。

第一回の研究会は、松戸市の戸定館でおこなわれ七~八十名の先生方が参加しました。研究委

員会が組織され、会則ができ、会費を集めて研究活動を支えるというような体制づくりが熱心

にすすめられました。

昭和四十一年、常磐平幼稚園の理事長森口清先生と私とで、白梅学園短期大学教授の久保田浩

先生を訪ね、講師として会のご指導をお願いしました。

年間約九~十回の講座が、そのときから現在にいたるまで続けられています。

初年度は原理論でした。幼児教育における基本的な原理にかかわる講義を一年間きいている

うちに、私たちはそれまで自分たちのやってきた幼児教育がいかに底の浅い、いいかげんなも

のであったかをいやというほど思い知らされたのです。まさに頂門の一針というか、どでかい

ハンマーで頭をぶんなぐられたような、衝撃でした。存在の根拠を根底からゆさぶられ、つき

くずされる思いをもって、久保田先生の語られる一言半句を心に刻みつけたものでした。

第一回の講義から、私はメモをとり、それを次月の研究会までに印刷して、全員に配布すると

いう仕事をひき受けました。メモを読み返しながら原稿にまとめる作業をくり返すことに

よって、久保田先生の講義をすこしでも深く理解したいと思ったからです。

第二年目は、具体的な保育実践にかかわっての各論的講義にはいりました。

その年、私たちはそれまでやってきた保育をすべて白紙にもどし、いっさいをはじめからやり

なおしてみることにしました。

子どもを園の主人公とし、子どもの人間としての成長と発達を支えていく保育とは、いかなる

ものであるべきなのか、私たちは一日一日の保育を深く反省し、みつめなおし、問題点を洗い

だして、あすの保育を展望していくというかたちをとりました。とった、というよりも、そうす

るしかなかったといったほうがあたっています。そのころ、私たちにはあすの保育をみとおし

て、予測をたてるというようなカはなかったのです。

そこで、みんなできょうの保育を報告しあい、あしたはいったいどんな活動が展開されるだろ

うか、何を準備し、どんな予測がたつだろうかと、いもづる式の職員会議を毎日やったのです。

七時、八時、ときには十時と、毎晩のように話しあいました。家庭をもっている教師たちはなる

べく早く帰るように配慮しましたが、じつにたいへんな試行錯誤の年でした。

私たちを支えてくれたのは、ほかならぬ子どもたちでした。子どもから出発しようと、私たち

が決意したそのときから、子どもたちがかわってきたのです。

遊びの収集

私たちは、子どものほんとうの姿を深く知ることからはじめたのです。

久保田先生の講義をききながら、ひとつひとつ実践のなかでの確かめをしていこうというの

で、まず手はじめに、子どもの自由遊びの観察記録をとることにしました。

週に一回、十分程度でいい、自由遊びに熱中している子どもたち、ぶらぶらとひまつぶしをし

ているような子ども、けんかしている子ども、なんでもいい、どんな場面でもいいからそれを

記録して、言葉にし、プリントして、みんなで検討しあうことにしたのです。

やってみてわかったことは、子どもの実際の動きや遊びのなかで子どもが話している言葉、遊

びの展開していくようすなど、第三者に十分に通じるように記録することが、どんなにむずか

しいことであるかということでした。

私たちは子どもの生活や遊びをみているようで、じつはあまりよくみてはいなかったのです。

むしろ、眺めていたといったほうが適切だったと思います。

自分のとった記録について報告しているうちに、あれこれ質問され、場面をもう一度再構成し

ていくと、まるで記録になかった重要な事実が次々に浮かびあがってくるのです。さらに、子

どもたちの遊びがどのような意味をもち、その子の何が育ち、何がその子の課題であるのか、

その子は今どんなことに興味をもち、何に挑戦しようとしているのかなど、遊びのもっている

価値を分析し、読みとっていく作業は、じつにしんどいものでした。力不足、勉強不足というこ

とを、心から実感させられる日々だったのです。

しかし、一方では子どもたちが毎日園にきて生活しているのですから、力がないからといって

、立ちどまって考えているわけにはいきません。

私たちは日々の子どもたちとの生活のなかから、子どもたちが目の前で展開していくさまざ

まな遊びや活動の事実から、できるだけ深く学んでいくことを確認しあいました。

同時に、みんなでてわけして本を読むことにしました。そして自分の読んだ本についてみんな

にレポートするのです。夏休みにはかならず読んだ本についてのレポートをかきました。洋の

東西を間わず、片っぱしから読んでいくというありさまでした。

めばえの先生は就職すると同時に、ずいぶんたくさんの本を“必読書”として買うように先

輩たちから指示されるという習慣が、いつのまにかできあがっていました。

子どもたちの遊びを深く分析的にみつめ、そこからひとりひとりの子どもたちの教育的な課

題をつかみとっていくという気風が、園のなかにしっかり定着しはじめたのです。

このことはじつにすばらしいことだと、私は自画自賛しています。

子どもが子どもを本来の姿、子どもらしいいきいきとした、躍動感にあふれた姿を私たちにみ

せてくれる“遊び”の場を、子どもが真に人間として、人間らしく育っていく場ととらえてい

くことは、そんなにかんたんなことではないのです。

子どもの問題をあいだにおいて、たがいにとことん話しあい、きびしく変革を迫って、涙を流

しながらやりあうほんとうの仲間としての教師集団が育ってきて、はじめて可能になる“い

となみ”なのです。

仲間と育つ

保育のみなおしをはじめて数年たったとき、私たちが発見したのは、仲間とともに育ち、仲間

のなかで育つ子どもたちでした。

昭和四十二年に私たちは夏の行事である“インディアンまつり”を企画したのですが、その

行事をほんとうに楽しいものにしたてあげていったのは、ほかならぬ子どもたちでした。

この先、どうやっていったらいいかしらと、とまどい悩んでいる教師たちに、子どもたちがす

すむべき道を教えてくれたのです。

インディアンまつりがうまれた直接のきっかけは、昭和四十一年のひとりの教師の実践でし

た。

箕田エツ先生は、そのころずっと一年保育を担当していましたが、ある日の職員会議で彼女が

要求したことは、次のようなことでした。

それは、一年保育の五歳児は園に慣れるのに時間がかかり、やっと五歳児らしいのびのびとし

た活動をしはじめたかと思うと三学期になってしまい、これからおもしろくなるというとき

に卒園していってしまうので、ほんとうにはがゆい思いがする。そこで、二年ないし三年目の

五歳児のための指導計画ではなくて、一年保育児のための指導計画を考えたい。一年保育がひ

とクラスだけしかないので、ついては私の思うとおりの指導をやらせてほしいということで

した。

そこで、職員会議での話しあいには参加するが、一年保育のクラスについては、職員会議の決

定に関係なく独自の活動にまかせるということにしました。

驚くべきことに、そのクラスは五月はじめにはもうクラス全員の子どもたちが、たがいの名前

を覚えてしまっていました。「きょうはだれが休み?」とたずねると、「○○ちゃんだよ」と

いう返事が即座に返ってくるのです。

五月半ばごろからパーマンごっこがはやり、園服のいちばん上のボタンだけかけて、両腕をぬ

いた子どもたちが、わけもなくパーマンになって机の上からとびおりて、あちこちのクラスま

で走っていって帰ってくるという、単純な遊びでした。

箕田先生はなんの発展もない、単純なくりかえし遊びが気に入らなかったのです。そんなつま

らないくりかえし行動しかできない子どもたちに内心腹をたてていました。そしてある日、彼

女は子どもたちに提案しました。パーマンは宇宙をとべるのよ。みんなもパーマンなら宇宙旅

行にでかけたらという提案でした。

数人の男の子たちが身をのりだし、“宇宙船”をつくろう、ということになって、ダンボール

を組みあわせてそれらしきものをつくりました。ところがダンボールの宇宙船はみんなで遊

びだしたとたんにこわれてしまったのです。

彼女は「あら、ダンボールじゃすぐこわれちゃってだめね。もっとこわれない宇宙船をつくっ

たら?」と、ベニヤ板とスギ材による宇宙船づくりを提案しました。

一~二週間かかって、保育室のまんなかに大きな宇宙船が完成しました。

六月のはじめごろ、内気でほとんど人前で口をきいたことのないひとりの女児が、家庭で母親

と一緒に「お月さま探検の歌」を作詩してきたのです。箕田先生はさっそくその日のうちに

曲をつけて、子どもたちとうたうことにしました。

船長、探検隊、月のウサギたちによる劇遊びの原型のような活動がうまれ、さらにお話づくり

が展開していきました。

二学期になっても探検ごっこは続き、クリスマスにはお話づくりをもとにした劇遊びに発展

していきました。

私たちは一年保育の五歳児たちが、この年の一年間の生活をとおして、それまでにみられな

かった飛躍的な成長をとげていくのを、目のあたりにしたのです。

子どもの可能性

私たちは、幼稚園時代の三歳から五歳にかけての子どもたちが、どの程度の可能性をもってい

るのか、ということについてはまったくといっていいほどわかっていません。

やらせればできるというので、英語や文字、数、鼓笛などを一方的にしこんでみたりする風潮

があります。しかし、そうした教師が一方的に指導しおしつけるかたちでの学習によって、こ

の時期の子どもたちの可能性がどれだけひろがるのかというと、事実はまったく逆であるこ

とがあきらかなのです。

世界的に有名な心理学者たちや教育学者たちの研究によると、子どもたちは自分から積極的、

自発的に自分の体験をとおして会得した知識だけを身につけていくのであって、外側から強

制され、おしつけられた知識や技能は絶対に子どものものにならないというのです。

幼児期は体験学習によって知識を獲得していく時代であるというのです。しかも、自発性の原

則によって、子どもが自分から興味や関心をもって対象にかかわっていくという実体験によ

らなければならないといわれます。

すると、幼稚園での生活というのは子どもたちが、自発的に自分から何かをしようという気持

ち-意欲-をもって、自分から行動をはじめることによって、はじめて子どもの成長をうなが

すことができるということになるわけです。

私たちは、箕田エツ先生の実践をとおして、五歳児のもっている可能性に目をひらかれる思い

でした。私たちはもっともっと子どもたちを自由にしなければならないという、大きな課題が

みえてきたといえます。

おとなの側での勝手な思いこみによって、子どもを“ひきまわし”たり、“やらせ”たりする

のではなく、子ども自身が“やりたい”“やらせて”と目的意識や意欲をもって、主体的に取

り組んでいけるような“魅力”のある生活を子どものために用意していくことが、子どもひ

とりの可能性を最大限にひきだしていくために、絶対に必要なことなのだということに気づ

いたのです。

盆栽のマツのように、枝をたわめ、そえ木をかけてしばりつけ、“仕たてあげて”いくような

教育は根本的にまちがっているのだということを悟ったのです。

頭でっかちの、みせかけの知識ばかりゆたかで、ボタンひとつ自分では満足にかけられないよ

うな、“おりこうさん”のよい子を“飼育”するのではなくて、ひなたくさい頭の毛の、よく

陽にやけて、どろにまみれて遊べる、子どもらしい活気に満ちている“存在感の確かな”子ど

もを育てようという、園のめあてがみえてきたといえます。

言語化ということ

昭和四十八年ごろから、私たちは各学年ごとに“総括”と称して、一週間から十日間ぐらいを

かけて、子どもたちの生活の記録を言葉に残す作業をはじめました。

最初のころ、私たちは何を記録に残すか、あまりはっきりしたイメージがありませんでした。

各月の指導計画と、その計画にもとづいて、それぞれの教師が自分のクラスでおこなった保育

を反省して、そこで、どんな生活が展開したのか、子どもたちの具体的な活動はどうだったの

か、そして、子どもたちはどのような状態から、どのようにかわったのか、子どもたちは何を学

び、どんな力をつけたのか、指導上の問題点はなんだったのか、どんな指導が望ましかったの

か、指導の誤りの原因はなんであり、どのように克服していけばよいのか-私たちは職員会議

のなかでひとつひとつの問題について話しあい、それらを文章化していくことにしたのです。

最初にできた記録はほんとうに薄く、数十枚のものでした。わら半紙に、ガリ版印刷の粗末で

貧弱なものでしたが、それが完成したとき、私たちは「やった!」と喜びあい、何かいいしれ

ぬ充実感をおぽえました。

園における子どもたちの生活というものは、ひとりひとりの子どもの生活の事実として、それ

ぞれの子どもの心とからだに刻みこまれていくものです。そのすべてを詳細に観察し、記録に

残すなどということは不可能です。

教師の目にみえない、はるかな深みにおいて、ひとりひとりの子どもが、自分自身の成長を自

分でつかみとりながら、人間として育っているのです。その深みをすべて探ろうとすることは

不可能としても、せめて私たち教師が、みることのできる部分、感じとることのできる深さだ

けをすこしでも記録に残し、それを分析し、評価し、子どもたちのより確かな育ちのために役

だてようという願いにつらぬかれて、私たちは、保育の言語化を二十年後の現在にいたるまで

続けてきました。

ほうっておけば消えていくはずのもの、忘れ去られてしまうもの、それが子どもたちの育ちの

記録であり、それぞれの時期に子どもたちと生活した教師たちの保育のいとなみなのです。

私たちは、それを毎年記録に残し続けるなかで、自分自身の保育をみつめなおし、また仲間の

保育をみつめながら、より確かな保育を実現しようと努力してきました。

自分の保育を自分の言葉で表現し、客観化していくのは、力のいるしごとです。言葉としてう

まく表現できないというのは、言葉をもっていない、すなわち考えていないということに通じ

る場合が多いのです。

実践の言語化をとおして私たちは、専門職としての任務にたえうるたしかな力量と子ども観、

保育観の深まりを求めたいのです。

5 生活への間い

生きるとは

子どもたちの遊んでいる姿をみつめていると、彼らはじっに真剣に毎日を生きようとしてい

ることに気づきます。

幼い子どもには、冗談がつうじないといわれますが、実際そのとおりなのです。

三歳から五歳にいたる幼児の時代というのは、冗談が通用しないほどまじめで、真実な心を

失っていない時期なのです。あと数年して、子どもが小学校の四年生ぐらいになると、冗談や

皮肉がちゃんとわかるようになるといいます。

そして、親や教師、まわりのおとなたちの言動に表と裏のあることをみぬき、たてまえと本音

のちがいをみわけて、適当に対応する(あしらう)ことをおぼえていくのです。

母親のうちかぶとをみすかして「ああはいってるけど、じつはこうなのだ」とか、「こっちを

むいて話しているけど、じつはあっちにきかせているんだ」というぐあいに、おとなの世界の

複雑に交錯した関係をある程度斟酌することができるようになるのです。

ところが、幼児の場合には、そんな心のからくりなどわかるはずはありません。彼らはそれこ

そ必死になって、きょうという日の生命を生きようとしているのです。いや、今というこの一

瞬一瞬を、ひたすらに生きようとしているといったほうがよいかもしれません。

子どもにとって“きょう”というこの一日は、人生のすべてといってよいほど、かけがえのな

い一日なのです。子どもは、まだ過去と現在と未来にまたがって流れる時間についての観念を

確立しているわけはないのです。

ですから、子どもが自分の過去をふりかえって、しみじみと懐古の念にひたったり、さきざき

の未来のゆくすえについて、沈思黙考するなどということはしないのです。

子どもにとっては、現在がすべてなのです。今、こうして生きて、動き、遊んでいる、この瞬間が

子どもにとってかけがえもなく大切なものなのです。

子どもにとって“生きる”とは、一日一日のかけがえのない日々を、ふたたびめぐりめぐって

もどってくることの絶対にない、ただ一回しか生きることのできない日として、精いっぱいに

生き、遊ぶことなのです。

「明日のことを思いわずらうな。明日は明日自らが思いわずらうのだから」と語ったキリス

トの言葉を、そのまま生きている、それが幼な子たちなのです。

時間を生きる

私たちは、時間のなかで生きています。おとなになり、老年に近づいてくると、しだいに自分の

もち時間が少なくなってくるのを実感します。しかし、子どもたちは違います。

子どもたちにとって、時間は無限に近いほどゆたかにあります。

なぜなら、遊びに夢中になっている子どもたちは、時間のたつのを忘れて没頭しています。時

間などまるで意識のなかにないのです。

時間を忘れ、われを忘れてひたすらに遊びに集中している子どもたちにとって、その充実と没

我、あるいは無我の瞬間というのは、時間のなかにしばりつけられて生きている状況から、ぬ

けだし超越しているといえるのではないでしょうか。

おとなになると、そうはいきません。

いつも時間を気にし、スケジュールに追われて、早すぎたとか遅すぎたとか、時間のなかでう

ろうろすることになるのです。

おとなにとって時間は、仕事をこなすために必要な“量としての時間”であったり、ここから

あそこへ移動するために要する“線としての時間”であったりします。

しかし、子どもにとって時間とは、量や線としてかぞえたりはかったりするものではないので

す。子どもにとって時間とは、めまいがするほど楽しくて、爆発し炸裂していくエネルギーを

すべてそのなかにそそぎこみ、たたきこんでいくことのできる、すばらしい無我体験、忘我体

験の場なのです。

子どもは時間を量としてでなく、質において体験しながら生きているのです。量としての時間

はたいくつな時間です。時間をただ量としてしか体験することのできない人は、たいへん不幸

な人といわなければならないのです。

何時から何時まで、これこれのことをしなければならないといったぐあいに、時間をつかうこ

としか知らない人は、人間的なあるいは感動的な時間をつかったことのない人です。

心の内側から炸裂してくるダイナミックな力がほとばしるのに身をまかせ、時間を忘れて夢

中になるという体験は、ことのほか幼児のときに大切な意味をもっているのです。

ペスタロッチがスイス週報のなかで「子どものころ、チョウや虫を追いかけて夢中になった

体験をもった人でなければ、おとなになってからたいした成果もあげられない」といった意

味のことをかいていますが、そのとおりではないでしょうか。

時間を自分のものとして、主体的に生きる体験を子どものときに十分に味わわせてやりたい

のです。

生活と空間

子どもはのびのびと手足を動かして、十分な空間のなかで、十分に遊びまわることが必要です

ゆったりとした空間は、ゆったりとしておちつきとゆとりのある生活をうみだし、精神的にも

情緒的にも安定した人間を育てていく効果があります。なぜ、そうなのでしょうか。

子どもは、せまいところが好きだという説もあります。広い室内にわざわざせまいコーナーを

設定し、穴ぐらのようなところにもぐりこんで遊ぶのを好むのも子どもなのです。

動物の帰巣本能と同じように、子どもは母親の胎内にいたときの快適さを無意識に求めてい

るのだというのです。それは、それで正しいのでしょう。しかし、それだけではだめなのです。

子どもはより広い世界にむかって、自分の可能性に挑戦し、自分の世界をひろげ、自分の支配

しうる空間を獲得していかなければならないのです。

何年か前にアメリカのサンフランシスコで幼稚園を見学したとき、なぜ、オープン・システム

の壁のない教育法をとり入れたのか、という私の質問に対して、園長は「アメリカという国は

、まだ未開発のままの広大な国土をもつ国である。子どもが自分のもつ可能性をどこまでも追

求していく気風をもって育ってくれるように、幼稚園時代においてもおとなが一方的に枠を

つくるのではなくて、自分のほしい空間を自分自身で獲得し、確保していくような生活をさせ

ていくのだ」と語ったのを忘れることができません。

日本でも、古くから「住は人をつくる」ということわざがあります。

いろいろな意味があると思いますが、ひとつには、子どもがどんな環境において育てられるか

ということによって、その子の性格や心情など、人格的なものが大きく左右されることになる

のはまちがいないようです。

住とは、単に住居だけではなくて、日常の生活全般のありようを示す言葉だと思うのです。子

どもの望ましい育ちを考えるとき、私たちはのびやかでゆったりとした、ひろびろとひらけて

いる空間を思わずにはいられないのです。

そのうえ、子どもが走りまわり、とびあがったり、ころげまわったりする空間は、ゆたかな自然

の緑にめぐまれていなければなりません。

太陽と土と草や木と虫や鳥たち、そして水ときれいな空気と、広くどこまでもひらけている空

間とが、子どもの人間らしい育ちを支える大切な条件なのです。今、私たちの住んでいるとこ

ろは、どこもかしこも都市化され、緑は失われ、水も空気も汚染されてしまっています。

しかし、だからといって、子どもにゆたかな自然とのびのびと遊びまわれる空間は、もう与え

ることができなくなったと、あきらめてしまってはならないのです。

時間を忘れる

子どもたちは、夢中になると時間などまったく気にしないで、遊びにうちこんでいきます。

まわりに何が起ころうとも、だれがいようともぜんぜん気にもとめずに、自分のしたいことに

夢中になって取り組んでいきます。

私は、こんなときの子どもが大好きです。

子どもはまさに時間を“質”において生きているのです。われを忘れ、時を忘れ、いっさいを

忘れて、ひたすらに今目の前にあることがらに集中し、自分自身のすべてをうちこんでいる姿

ほど、尊いものはありません。

子どもはものすごい集中力を発揮します。子どものそんなときのバイタリティーはたいへん

なものです。ときには、お昼の弁当の時間になっても、子どもたちの“仕事”にどうしても区

切りがつかないということもあります。

教師が迎えにいっても、仲間たちがよびにいっても、そんなときにはお弁当を食べる気になら

ないのです。

「さきに食べててよ。あとからいくから」と、だれがなんといってもやめようとはしません。

降園まぢかのわずかな時間に、大急ぎで弁当をかきこんで家に帰るということもあります。ま

れには、ついにお弁当を食べずに帰った子どもたちもあります。

そんなとき、お母さんからさっそく電話がかかってきます。「どうしてきょうは、幼稚園でお

弁当を食べさせてくれなかったのですか?」という抗議と非難の電話です。

そんなとき、私たちはこう答えます。

「お子さんは帰ってからお弁当を食べましたか?」「ええ、もうおなかがすいてガツガツと全

部食べました」

「お母さん。お子さんがお弁当を食べる時間も惜しいぐらい、一生懸命に何かに取り組んでい

る姿をどう思いますか?」

「自分のやりたいことにむかって、精いっぱいに取り組んで、とうとうお弁当を食べる時間が

なくなった。それほど自分の人生に前むきに、積極的にうちこんでくれる人に育っていってく

れたら、うれしくないですか?」

「だいいち、食べたんならいいじゃないですか。このごろの子どもはぜいたくで、めぐまれす

ぎていて、飢える経験なんてそんなにできるもんじゃないですよ。きょうはとってもいい経験

をしたんです。お母さんのつくってくれたお弁当、おいしいっていってたでしょう」とまあこ

んなぐあいです。

保育といういとなみを考えるとき、私は子どもたちが時間を忘れ、われを忘れ、いっさいを忘

れて全身全霊をうちこんで自分自身を燃えあがらせていくような生活をしていくことなしに

、人間としての育ちを保障することはできないと思うのです。

うちなる自己

幼稚園は、子どもが主人公でなけばならないとはよくいわれる言葉です。

しかし、子どもがほんとうに幼稚園の主人公になるというのはどういうことなのでしょうか。

私たちは、子どもを主体とした保育とか、子どもの側にたつ保育とかといい続けてきましたが

、最近ようやくそのことの意味がすこしわかりかけてきたように思います。

子どもを園生活の主役にしていくということは、じつはほんとうにむずかしいことなのです。

教師やおとなには子どもを育てよう、導こうという、人間の本性に根ざした“教育的願い”が

あります。子どもたちへの人間的な愛情といってもよいでしよう。その願いからでてくる“手

だし”“口だし”がくせものなのです。

私たちは教師として、また親として、子どもたちとむきあうとき、まず捨てなければならない

のは指導者意識であり、教師根性です。親も“わが子”根性を、捨てなければなりません。私の

子ども、私の生徒、という意識でたかみにたって、“私のもの”だから、私がなんとかしなけれ

ばとか、私がなんとかしてやるんだと意気ごんでしまうのは、根本的に誤りであることに気が

ついてほしいのです。

子どもは自分で育つのです。自分で育ちたがっているのです。子どもは事実、自分で育つこと

ができるのです。

もちろん、親や教師が子どものためにしてやれることはたくさんあるし、またしなければなら

ないこともた<さんあります。しかし、それは、基本的には、“よけいなことをしない”という

条件つきでということになります。

子どもはまだ未完成で未成熟で、不完全で弱々しく、保護と介護、指導や助言、援助がなければ

、自分の力で生活のすべてをまかなっていくことは不可能です。そのことは子どもにも十分わ

かっていますし、おとなならなおさら当然のことわかっていなければおかしいのです。

しかし、子どもがまわりのおとなたちに十分愛され、守られ、保護されて“養われて”いくこ

とと、子どもが“育っていく”こととは別なのです。こんなことをいうと、納得のいかない人

がたくさんいると思います。でも、ここのところが子どもにとって運命の分かれ道なのですか

ら、ぜひとも理解してほしいのです。

「一寸の虫にも五分の魂」といいます。子どもは養われ、守られて育つ“生物としての白已”

と、自らのカで自らのうちに育っていく“うちなる自己”と、二重のしくみをもって発達し成

長していくのです。

二つの自己がバランスよく育ってこそ、望ましい子どもの成長があるのです。うちなる自己の

育ちを否定され、破壊されているところに、現代の子どもたちの悲劇があるのです。

Ⅲ 園づくり

1 教師が育つ

どこまで育つか

私は、新任の教師にかならず次のようなことをいいます。

一年目は失敗をおそれず、どんどんやりたいようにやりなさい。どんな失敗をしても一年目は

許される。そしてかならず先輩たちや園長、主任が尻ぬぐいをしてくれる。若い教師には若さ

しかないんだから、からだで子どもたちに、ぶつかっていきなさいと。

二年目は、一年目よりもすこし失敗は少なくなるだろう。しかし、まだまだ若いんだからやり

たいことをやりぬいてみること。多少の失敗なんか気にすることはない。

ただし、一年目、二年目をとおして、先輩の保育に学ぼうとする姿勢を大切にし、また、自分な

りに本をよく読んで、専門職にふさわしい知識や技量を身につけていく努力をしてほしい。

三年目は多少おちついて仕事ができるようになってほしい。二年間の保育実践の経験上、一年

目のような失敗は許されなくなってくる。

そして、保育についても、何かひとつでよいから、スペシャリストとして、あのことならまかせ

られるというようなものを、自分のなかに積みあげていく努力をしてもらいたい。

四年目は、そうかんたんには迎えさせないよ。三年間でどれだけ育ったかが、問われる年だと

覚悟してもらいたい。後輩もはいってくることだし、すこしは先輩としての指導性も発揮でき

るくらいに育っていてくれなくては困る。

保育についてだけではなくて、人間としてどれだけ育ったかということが、きびしく問われる

年だということを、今からこころして一日一日を大切にし、かけがえのない青春の日々を子ど

もたちとともに生き、子どもたちのために生きたことを、ほんとうに自ら納得できるような仕

事をしてもらいたい。

どこまで育つかは、自分の責任なんだからそのつもりで努力してもらいたい。

自分で自分を変革し続けていく人でないと、子どもの前に立ってもらいたくない。自己変革の

できない人というのは、成長のとまってしまった人のことなのだから、そういう人には、子ど

もをまかせるわけにはいかないということなのです。

きびしいかもしれませんが、子どもたちにとって教師という存在は、じつに大きい意味をもっ

ています。教師の生きざまが、そのまま子どもたちの人格発達に決定的な役割をもっているこ

とを思うとき、私には妥協する余地は残されていないのです。

人間を大切にするというのは、じつにきびしいことなのです。

好きにやらせて!

東京オリンピックのあとの体操フィーバーで、体育講師による特別指導のプログラムを園の

カリキュラムのなかに位置づけようと、数年間試みたことは前にもいいましたが、その結果、

現場の先生たちから痛烈な批判がでてきました。週に一回だけ、わずか数十分の子どもたちと

のであいで、何が指導できるのかというのです。

子どもたちの生活にはリズムがあり、流れがあります。一日一日の遊びや活動のなかに、起承

転結があります。子どもたちの生活や活動の流れにそって、もっとも望ましいタイミングをと

らえて指導にはいることができるのは、担任の教師以外にはできないことなのです。

しかも、ひとりひとりの子どもの性格やその日の心とからだの調子をきちんと理解しながら、

ひとりひとりにあった指導をしていくことができるのも、担任しかいないのです。

体育の専門家はたしかに体育の指導はうまいが、子どもたちひとりひとりの、その日、そのと

きまでの育ちのプロセスをふまえ、今その子にとって何が問題であり、どんな言葉かけをして

いったらいいのかなどという、こまやかな配慮にうらうちされた指導を期待するのは、とうて

い無理な相談なのです。

そこで、先生たちは「体育の講師に子どもをまかせることはできない。私たちがやります」と

いいだしたのです。

自分のクラスの子どもたちについては、担任として責任をもって指導したい、また指導すべき

だし、指導できるという自信を、先生方はもっていました。そこまでたどりつくために、数年間

の試行錯誤が必要だったわけです。

先生たちもそれまで真剣にマットやとび箱、そのほかの運動に取り組んで、自分自身のトレー

ニングに汗を流してきました。その結果としてえられたひとつの結論であったのです。

子どもたちの指導は私にまかせてほしいといって、体育講師を拒否した先生たちは、まさにプ

ロの教師としての誇りと専門性を、しっかり自分のものとしてつかんだ先生たちだと思いま

す。

そこには、たがいにきびしく批判すべきことは批判し、伝えるべきことは伝えあっていける“

よき仲間”としての教師集団のあり方が、背景になっていたのです。

以来、めばえの先生たちは「わがクラスだけ」という閉鎖的意識をのりこえて、みんなで子ど

もたちをみつめていくという気風を、伝統的に大事に育ててきたのです。

ですから子どもの問題について、保育について先生たちは納得のいくまで話しあう習慣が身

についています。保育については、絶対に妥協や傷のなめあいのようなことはしないのです。

生きざまを問う

私は、新卒の先生にもうひと言つけ加えて話します。

それは、子どもも教師も、ともにその生きざまがトータルに問われる場が保育だということで

す。

どんな生き方をしているのかという問いが、子どもにも教師にもつきつけられていくのが保

育という場なのだということです。

子どもにとって園生活というのは、まさに修羅場であります。

母親に守られ、家庭というあたたかい居心地のよい場所にいるはずの子どもが、幼稚園にくる

ということは、じつにきびしい、苦しいことにちがいないのです。

いわば浮き世の荒波にもまれ、嵐にさらされるような生活が、子どもにとっての園生活ではな

いでしょうか。

教師にとっても、保育の仕事はじつにきびしいものなのです。

クラスの子どもたちは、その担任の口のきき方からしぐさまで、なんとなく似てくるものです

。一年間、毎日一緒に暮らしていくと、担任の教師の性格や癖まで子どもたちにうつっていく

のです。

だらしのない教師のクラスの子どもたちは、同じようにだらしのない生活をなんの疑いもな

く自分たちのものにしてしまいます。神経質でピリピリしている教師のクラスは、やはりその

ように“なって”いきます。

いわば教師の人間性のすべてを、子どもたちはまるで鏡か写し絵のように、自分のものとし

て“ひきうけて”いくのです。そういうことを考えると、教育というのはじつにそらおそろし

いことです。

子は親の鏡といわれ、教師の鏡、分身といわれるのは、まったくたまらないことです。しかし、

私たちは教師という職業を選びとったその日から、そのような“おそるべき立場”を自分で

選んだのです。

人間の教育はいつの時代にも、限りある能力しかもちえていない人間が、その限界のなかで、

おそれとおののきとをもって、いとなみ続けてきたものなのです。

大事なことは、私たち教師とよばれるものが、自らの限界を知り、その限界をみつめながら、可

能な限り、限界に挑戦し、自らの可能性に挑戦し続け、自分自身において育ち続けていく努力

を忘れないことだと思うのです。

自分自身の生きざまをより深く、より確かにみつめ続け、自己変革を追求し続けるものだけが

、子どもの前に教師として立ち続けることを許されるのです。

そのことを、私は新しく教師になる人たちに語り続けてきました。

納得のいくまで

めばえの気風のひとつに、たがいに納得のいくまで話しあうということがあります。

子どもへの対応の仕方、言葉かけやちょっとした態度などについて、だれかが気になると、そ

れを一対一で話しあったり、ときには職員会議の議題に提案したりするのです。「これはひと

りの教師の問題ではなくて、全員の問題である」という理由からです。

どんな小さいことでも、目についたこと、気になること、心にひっかかることは、かならず話題

にして、その意味や理由をあきらかにし、たがいに納得しあうという気風です。

ある土曜日の午後、二、三人の先生たちが園長に「きょうはどうしても話しあっておきたいこ

とがあるので、何時間か残らせてください」と許可を求めにきました。「どうしても、月曜日

までのばしておく気持ちになれない」というのです。

たしか六月の半ばごろだったでしょう。

四月から仲間になった、新卒の先生と話しあうということでした。

「これまで何回も具体的な保育の場面をとらえて、ひとつひとつ話しあってきたが、どうもう

まく通じていない。ここいらで徹底的に時間をかけてあの人の保育観と子ども観について、納

得のいくまで話しあってみたい」と、夜の七時、八時ごろまでえんえんとやっていたようです

子どもひとりひとりを大切にするということは、同時に、教師ひとりひとりを大切にするとい

うことにも通じます。仲間のひとりをほんとうに大切に思い、子どもをどうみているのか、子

どもとの人格的、人間的な対応とはどういうことなのかなどという、もっとも基本的なことが

らについて、じっくり時間をかけ、たがいの思いのすべてをぶちまけて語りあっていく姿勢を

、私はたいへん尊いものと思います。

そこには胸のはりさけるような痛みがあります。

問題を提起して、保育について、子どもについて、教師の人間としての生きざまについて掘り

さげ、問題の所在をつきとめていくプロセスは、じつにつらいものです。胃が痛くなったり、食

欲がなくなったり、からだがふるえるような思いも経験していくのです。

しかし、子どもたちひとりひとりをほんとうに大切にしていくということのためには、避けて

通れない“涙の谷間”だと思います。

そんなつらい痛みを、あえて自ら選びとってくれる仲間がいるということ、それがめばえのす

ばらしさだと私は思っています。

たたきあげる

先生たちに対して、私はきびしかった(今はきびしくないようで、不平をいう先生もいます)こ

とを思いだします。私も若かったが、もっと若い先生たちを育てなければという思いから、

「壁新聞」まがいの「保育メモ」なるものを、保育室周辺の壁にはりだしたものでした。昭和

三十八年から三十九年にかけての約一年問でした。

その保育メモには、さまざまなことがかかれました。画用紙をたてにつかって、マジックペン

で太めの文字をかきました。そのうちのいくつかを拾ってみましょう。

・教育とはひきだす(エデュース)ことである。

・私たちは保育という仕事をとおして、自らの人間性をはかられている。ます目を満たすよう

努力しよう。幼児教育の鍵、それは保育者自身が自らの人間性の開花をめざして、努力するこ

とにある。

・保育についての専門的技術、これなくしては、私たちは幼児のなかにはいっていけない。

しかし保育は技術ではできない。人間性の伝達、人類の遺産を受けわたすということ。ここで

は人間、人格がもっとも大切な要素になる。私たち保育者の人間性、人格が幼児にうけつがれ

ていくということなのだ。

・幼児に“教えてやろう”というのは正しくない。私たちは幼児に学び、幼児に導かれ、幼児に

よって育てられる。子どもたちは、私たち教師の鏡なのだ。

・ゆたかな表情(ユーモア)を!言葉にも態度にも、うたうことにも、お話にも、そして顔にも!

・たえざる研修と努力のみが、私たちをよりよい保育者にする。

・幼児の実態をしっかりつかむ。そして、いきいきとした保育を展開する。

・しつけは一貫したきびしい態度で、子どもに妥協することなくおこなうこと。子どもにでき

ることは、すべて時間をかけてやらせる。子どもの能力によって無理と思われるものは、その

部分を教師が助力する。

・音楽リズムについて。

使用する曲については、①完全にマスターする②正しく弾く③曲想を理解する④指導法のい

くつかのケースを考えておく。

リズム遊びについては、①教師自身の創造的で新鮮な感覚が大切であり、リズムを楽しむ心が

いきいきとかよう指導をおこなう②子どものなかから、どんどんひきだしてくること。

そのほかにも、たくさんありました。

そして、私がはずすまでは、だれもかたづけないでほしいということにしたのです。

毎月の母の会に保育参観がてら来園する母親たちは、「あら、ずいぶんいろいろなことがかい

てあるわね」と壁一面のメモをながめていました。

ときには教師たちが「あれは早くはずしてください」というようなものもありましたが、私

が納得するまではダメとはねつけたり、そうとうのワンマンであったようです。

かくだけではなくて、ずけずけと歯に衣を着せないでいいまくっていたのです。

「あのころはきびしかった。でも、たたかれながらいちばん育った時期だった」と、二十年

たった今、主任の先生がもらしてくれました。

2 山形めばえ幼稚園の誕生

発端

「へえーっ、山形に幼稚園をねえ。どうしてまた?」私が山形県の北端、金山町にめばえ幼稚

園をつくった話をきくと、まず、だれもがけげんな顔をしてたずねるのです。

ひととおり経過をお話しましょう。

昭和四十八年の春、私は山形県最上郡金山町から、ひとりの訪問客を迎えました。管伝作氏と

いう金山町の岸宏一町長からの使者でした。山の匂いのプンプンするような、じつに素朴でさ

わやかな人でした。

金山町に幼稚園をつくってほしいという、町長の要望を伝え、私に一度町をみにきてくれとい

うのです。私は、ひと目で彼にほれこんでしまいました。そして、十一月はじめの連休に金山町

を訪れることを約束してしまったのです。

秋の紅葉のまっ盛りに、私たち夫婦は金山町をたずねました。

岸町長は自ら車を運転して町中を案内してくれ、「いいときにきてくれた」と喜んでいまし

た。たしかに、すばらしい紅葉の美しさ、山の緑のゆたかさに圧倒されるような思いでした。

埼玉県で縫製工場を経営している妻の妹夫婦が、三年ほど前に金山町に分工場を建て、義弟と

町長との話題になったのがきっかけでした。とくに、今はもう退職されましたが、当時の助役

であった柴田氏と話したとき、私は、ここに幼稚園をつくろうという決意を固めたのでした。

当時、教育長をされていた大山氏は「こんないい季節だけじゃなくて、雪の降っているときに

きてみなさい。尋常一様の雪じゃないんだから」といってくれました。

私たちは、それから管氏と一緒に土地探しをはじめたのです。翌年の春から夏にかけて、私た

ちは何回も土地探しにでかけ、あちこちの山に登ったりしました。

ようやく土地が決まり、柴田助役や亡くなった皆川享一郎氏そのほかの方々の努力によって、

開発公社による土地の買収がすすんでいたさなかに、思わぬ海での事故で管氏が亡くなられ

たのです。横須賀の海辺にかけつけて、家族とともに彼を茶毘にふしました。幼稚園のできる

のを心から楽しみにしていてくれた彼、一緒に山に登りながら山形人の心についてあれこれ

と語ってくれた彼を頼りにしていたのに、いい男は長生きできないのかとほんとうにがっか

りしたものでした。

かこいのない幼稚園

二十数名の地主さんたちの協力によって、四千坪の土地がまとまり、園舎の設計は町長の従兄

である東京の林寛治氏に依頼、色彩設計を林氏の友人富永姉に、施工は地元の金山建設に依頼

、監督業務に私の妹の夫である内田氏に協力を求めて建築がはじまりました。

定礎式がおこなわれたのが昭和五十年八月二十日、竣工は翌年の三月、学校法人の認可は昭和

五十年十二月三十日におりました。法人の認可をする前に、私学審議員の方々が現地を視察に

こられました。まだ建て前がすんで、柱が立っている段階でした。

「園地はどこからどこまでですか?」という質問があり、私は土地の図面のとおり、境界の石

ぐいがうってあることを説明すると、「そうではなくて、園地がわかるように周囲をかこって

ほしい」ということでした。

私は「なぜ、こんな山だけしかない安全な場所を、金網や針金でかこう必要があるのでしょう

か。下の道路だって、たまにしか自動車は通らない。山を登っていけば奥羽山脈を越すことは

できますが、自然のままの山は幼い子どもがかんたんにはいりこめるほど、なまやさしいもの

ではありません。だいいち、私はここに幼稚園を建てますが、絶対にまわりをかこう気持ちは

ありません。もし万一、子どもが裏の山に迷いこんで、捜索隊でも組織しなければならないよ

うなことになったら、むしろそんな子どものためにばんざいを叫んでやりたい」といいまし

たら、「まあ、いいでしょう」ということで、認可をしてくれました。

昔の我孫子でも、めばえはかこいがありませんでした。だんだん車がふえてそのうえ遊び不足

で、危険から身を守る力を失ってしまった子どもが多くなったために、やむをえず門をつくり

塀をめぐらすことになったのです。

幼児収容所や監獄ではあるまいし、子どもをかこいのなかで飼うような教育はしたくないと

いう私の思いが、ここ金山で実現したのです。

山野を自由にかけまわって、自分の足でふみしめる場所は、すべて自分のものだという、自由

な心を私は幼い子どもたちが、園生活での実感として、つかみとってもらいたいと思っている

のです。

山は俺たちのものだという思いが、子どもたちの心のなかに刻みつけられていくこと、そこか

ら山を愛し、山を大切に思い、自分のふるさとであるこのゆたかな自然にめぐまれた町を、心

から愛する人間が育っていくのだと、私は確信しているのです。

そのために私は、金山めばえの子どもたちをかこいのなかで育てることには、断固として反対

しました。

真の自由人を育てるために、心もからだもいかなる束縛もうけてはならないという、理想の“

しるし”として、金山めばえは“かこいのない幼稚園”であり続けたいと願っています。

人間にとって自分の自由を束縛するものは、自分自身以外にあってはならないのです。自己の

良心、責任感、他者への愛、配慮、そうした自分自身のなかで、自らにむかって命令し、語りかけ

てくる力に支配され、導かれていくのが、人間にとってふさわしい生き方なのです。

自分以外の外からの圧力や強制によって、やりたくもないのに無理矢理にやらされるという

ような奴隷的な生き方は、人間のものではないのです。

私は、子どもたちに人間的な生き方のできる人になってもらいたい、人間であることにふさわ

しい生き方を、自ら選びとっていける人に成長してもらいたいというそのことが、幼児教育に

かけている唯一の願いであり、目的であると信じています。

たくましく生きる

金山めばえの子どもたちは、都市化された我孫子の子どもたちとずいぶん違います。

まず、からだつきが違います。ひとまわり大きいのです。骨格というか骨組みが、違うように思

います。

食事の量が大幅に違うのです。このごろすっかり都市化した感じで、みんな市販の弁当箱を

もってきますが、はじめのころは、大きな握りめしを無造作に紙に包んでくる子が多かったの

です。自分の頭よりすこし小さめの、ずっしりともちごたえのある大きな握りめしを、みるま

にたいらげていく子どもたちの食欲とその食べっぷりに、私は久しぶりにお目にかかったの

です。昔は我孫子にも、そういう子どもがたくさんいたのです。

それから、ほおの色の違いです。十分に陽にやけて赤黒いまでに色づいて、つややかに光って

いる子どもの顔色をみていると、ほんとうに「ここに子どもがいる」、しかも「子どもが生き

ている」という実感が伝わってくるのです。

さらに、金山の子どもたちの手は、じつに器用でよく動きます。花壇づくりをしている子ども

たちの手をみていると、土を掘り苗を植えていく手つきなど、おとなそこのけのみごとさで、

てきぱきと手ぎわよくやってのけるのです。

親たちやまわりのおとなたちが、目の前で労働し、手をつかい、道具をつかっているのを、子ど

もたちは毎日みているのです。そして、機会があればいつでもそのとおりにやってきたし、や

れる力をもっているのです。

また、金山の子どもたちの造型活動はダイナミックです。トンボを描きたいといった子が、大

きな段ボール箱を開いて、一メートルほどの巨大な赤トンボを描いたのには、びっくりしたこ

とがあります。

何十年、何百年と育った巨大なスギの木と格闘して切り倒し、山からおろしてくる父親たちの

激しい労働の生活を目にし、耳にしている子どもたちは、父の仕事のダイナミックなひびきを

、幼い心にしっかり受けとめているのではないかと思うのです。

金山の子どもたちは、やさしい思いやりの心をじつにゆたかにもっています。

私が幼稚園の裏山へ散歩にでかけると、いつも何人かの子どもたちが一緒にきて、道案内をし

てくれます。「おじいちゃん、そこはあぶないよ」「違うよ、理事長先生だよ」などとやりあ

いながら、「こっちのほうが登りやすいよ」などと、いちいち声をかけてくれるのです。

このやさしさは、どのように子どもたちのものになったのでしょうか。

核家族と違い、二世代、三世代の大家族での老人を含めた生活が、その秘密だろうと思います。

「年寄り育ちは三文安」といわれて私は少年時代を育ちました。しかし、年寄り育ちは今、三

文得なのだと思っています。

せまい住宅のなかに母と子がとじこめられて、朝から晩まで鼻をつきあわせて、重箱の隅をほ

じくるようなこまやかさで、いじりまわされている都会の子どもは、多かれ少なかれ情緒障害

や感情欠損症的傾向に追いこまれないはずがないのです。

それにくらべて、金山の子どもたちは太陽のもとですっかり陽にやけて、ゆたかな自然と働く

親たちを目の前でみながら、祖父母の過保護ぎみの愛情をたっぷり受けて育っているのです。

過保護はいけませんが、愛されないよりははるかにましなのです。

本音でつきあう

金山めばえでの第一回の文集ができて、私は読みながら涙を流しました。

あるお母さんの話。

隣の家まで車で何分かかかるぐらいの山のなかに住んでいて、子どもはほとんど近所の人と

もつきあったことがないのです。まして同年齢の子どもとの遊びなど、経験したくてもできる

はずはありません。たまによその人が訪ねてくると、物かげにかくれてしまって、その人が帰

るまででてこないのです。

こんな子が幼稚園にいって、はたして無事に生活できるのかしらと思うと、とても心配で夜も

眠れないほどでした。せめて、入園前にすこしでも慣れさせておこうと、何回か幼稚園に連れ

てきて、庭で遊んで帰りました。

さて、いよいよ入園しましたが、はじめのうちは泣いていやがり、無理矢理に園バスにおしこ

むようなありさまでした。

子どもが帰ってくるまで、田んぼで仕事をしながら、今ごろはどうしているだろうと、子ども

のことばかり心配で、心がいっぱいでした。でもバスから降りた子が「お母さん、ただいま

-」と、田んぼの畦道を走ってくるのをみると、涙がでてとまらないのです。

子どもはみるまに幼稚園に慣れて、毎日喜んでいくようになりました。その子をみていると、

よくもまあこんなに育ってくれたものだと、心から喜びと感謝の気持ちがわいてくるのです。

と・・・。

また、あるおばあちゃんが書いてくれた文章には、「孫が幼稚園に通いはじめて、しばらくす

ると、ある日、ごはんのとき、お祈りするといいだして『神さま、このおいしいごはん、ありが

とうございます』といって食べはじめたのにはびっくりしました。

そして私が、からだのぐあいが悪くて寝ておりましたら、『おばあちゃんの病気が早くよくな

りますように、神さまお願いします』と私のためにお祈りしてくれました。

幼い子どもたちの心に、神さまをうやまう気持ちを植えつけてくださる幼稚園の先生に、心か

ら感謝します。私は孫のやさしい心がうれしくて、涙がでてとまりませんでした」とありまし

た。

私は金山めばえをつくって、ほんとうによかったと思っています。

竣工式の日、お祝いに参加してくださったある部落長さんが「いい幼稚園ができたな」と柱

をさすっておられた光景が目に浮かんできます。めばえ幼稚園が誕生したことを、わがことの

ように喜んでくださったあの部落長さんの姿を、私は忘れることができません。

二つの自然

教育長をしておられた大山先生が、ある日私に話してくださったことに「山形の人間は二つ

の自然を体験的にもっている」という話があります。

金山の人は二月の半ばをすぎたある日、「春がきた」ということを感じるというのです。時あ

たかも一年中でもっとも寒くて、雪が軒先まで積もっているころなのに、“春を感じる”感覚

を北国の人はもっているというのです。

もっとも寒さのきびしい時期に、寒さの極みをみとどけ、春の到来を感じとる直観的な感覚が

北国の人たちには、いつとはなしにそなわっているのでしょうか。きびしい冬の自然は、まっ

たく筆舌にあらわしきれないつらさがあります。約半年のあいだは、雪に埋もれてしまうので

す。

そして五月、ありとあらゆる花が一斉に咲きだすのです。

この百花擦乱のみごとさは、そこに生活している人たちにしかわからないものです。

春の喜び、太陽のめぐみのありがたさ、自然のすばらしさ、全山が若芽を吹きだす新緑の色の

あのやわらかい感触、それらを感じとる感覚の鋭さといったものは、関東に育ったものと東北

人とは決定的に違うものがあるのだと思います。

子どもたちの生活感覚にも、当然そうしたものが影響を与えていると思います。

ひとつには、冬の自然に対する感覚の違いがあります。

雪はやっかいなもの、邪魔なもの、いやだけれどしかたなく耐えなければならないものといっ

た感覚は、やはり雪国の人たちの基本的体質として、しみこんでいるのではないでしょうか。

私たちのように、雪はレジャー用というような感覚とは違うものがあって当然です。

金山めばえが誕生してはじめての冬、私たちは雪のなかの保育、雪を教材とする保育を考えま

した。そのためダクト方式による全館暖房に設計したのです。雪でぬれた手袋やくつしたは、

ダクト暖房でまたたくまに乾かしていきます。

雪をいやなもの、やっかいなものと受けとめるのではなくて、貴重な教材として利用し、子ど

もたちの活動意欲をかきたてていく、造型の素材としようという発想です。

子どもたちはびっくりするようなエネルギーを発揮して、何週間もかかって巨大なモニュメ

ントをつくりあげていきました。

雪に埋もれる生活ではなくて、雪を積極的に利用し、子どもたちの造型意欲をかきたて、目的

意識をもって集団で取り組んでいく、仲間づくりの手だてとしての保育を展開していったの

です。そうした小さな試みをとおして、意識の変革をめざしていく努力を大切にしたいと思っ

ています。

金山杉で有名な地元のスギをふんだんにつかい、外壁は焼き杉、保育室の窓は二重にして内側

に障子を入れるなど、心にくいほど日本的で、かつヨーロッパの感覚を色や造作にもりこんだ

園舎は、みごとに金山の自然にとけこみ、訪れるたびに私をほっとさせます。

卒業生キャンプ

「俺、ずっとここにいられたらいいな。家へ帰りたくない」といった、小学五年生の男の子が

いました。

彼はキャンプに参加して、はじめて生きていることの喜びを実感したようでした。

お母さんが用意してくれた四泊五日分の下着をそっくりそのままにして、出発したときのま

まで帰った子でした。

私たちは、徹底的に子どもの自由と自主的判断にまかせるキャンプを目標にして、二十数年間

、卒業生の小、中、高校生を対象に夏のキャンプをやってきました。

アカで死ぬことはないし、ちょっとやそっとのけがで死ぬこともないという、きわめつきに乱

暴な原則によって運営されてきたキャンプです。

朝、昼、晩の食事は一緒に食べるが、それ以外はグループに分かれた子どもたちの、自主的な生

活に最大限まかせていくのです。

生活のスケジュールは、子どもたちの希望によって決め、食事づくりや掃除当番の仕事以外は

、すべてグループごとの自由な生活をすごすのです。

昭和四十年からはじめて昭和五十五年まで、小学一、二年生は近くの小林牧場で一泊二日のテ

ント生活、三年生以上、中、高校生は四泊五日で関東一円をキャンプ地にしてきました。

金山町にめばえ幼稚園を設立してからは、ずっと金山キャンプとして子どもたちに親しまれ

てきました。自然度百二十パーセントの金山でのキャンプは、子どもたちに絶大な人気があり

ます。

金山町の漁業組合の人たちが、我孫子の子どもたちのキャンプにあわせて、ニジマスやコイの

つかみ取り大会を金山川で計画してくれたり、山形テレビに取材されたりして、子どもたちは

大満足のキャンプ生活を経験できるのです。

魚釣りの好きな子は、毎朝早く起きて私と川の上流へでかけていき、ヤマベを釣って帰り、た

き火で焼いて仲間と食べたりしました。

金山川の上流には、いも煮会のできる場所がたくさんあるので、川遊びかたがた園バスにのっ

てでかけます。

カジカを追いかけたり、川底のきれいな小石を拾ったり、時間を忘れ、われを忘れて遊びほう

ける子どもたちの姿をながめるのは、じつに楽しいものです。

我孫子と金山の幼稚園の先生たちや職員、その家族の人たち、地域のさまざまな人たちが支え

てくれるなかで、夏の数日を思いきり楽しくすごした子どもたちは、「ずっとここにいたい。

いられたらいい」という気持ちを残しながら家に帰るのです。

ひとときの充実した楽しい体験が、子どもたちの心のなかにしっかりと刻まれていくことに

よって、長く暗いトンネルをくぐりぬけていくような生活にであっても、その暗さや重圧に耐

えていく“生きる力”をたくわえてほしいと願い、ささやかな努力を続けてきました。

ここ数年、さまざまな理由からキャンプを中止していますが、早く再開したいと思っています

子どもたちからも催促されています。キャンプで育った子どもたちが、リーダーとなって助け

てくれるはずです。

スキーキャンプも十数年続けてきたので、ぜひ再開したいものと思っています。

その年々に協力してくださった父兄の方々のことを思い起こしながら、わんぱくのガキ大将

のような私の発意を、よくもまあ支えてくれたものだと、ただただ感謝のほかない思いです。

多くの人たちの、献身的な協力によってつづられてきた伝統をたやしてはならないという思

いを、あらたにしているしだいです。

3 子どもの変質

かたい子どもたち

幼稚園をはじめて、三十年たちました。この三十年のあいだに、子どもたちはずいぶんかわっ

てきました。

東京オリンピックのあった昭和三十八年ごろ、私は子どもたちがすっかりからだの柔軟性を

失い、とてもかたいからだになっていることに気づき、体操の時間を園生活のなかにもちこん

だり、小、中学生や婦人のスポーツ・クラブをはじめたりしました。

四、五歳の子どもが、まるで中年のようにからだがかたいのです。体前屈でまるっきり上半身

が前に倒れない子ども、前転をしようとしても、首が肩のあいだにはいっていかず、つっぱっ

たままの子ども、これは中年をすぎて老年に近づいている人のからだです。

棒きれのようにつっ立って、関節を支える筋肉も骨の発育にふさわしく発達していないので、

ちょっところぶとすぐ骨折してしまいます。しかも関節付近の複雑骨折が多く、全治六か月な

どという想像もできないような“大けが”になってしまうのです。

一メートルぐらいのところから落ちて頭を打ち、数か月も病院通いをしてみたり、ころんだな

と思ったら、手をつくことができないで、スキーの顔面制動みたいにもろに顔から地面にぶつ

かってしまい、あげくのはてにはつきたての餅みたいに“ベチャー”となって、頭の上のほう

までけがをするといったケースが、日常的になってきたのです。

食べもののせいもあるでしょう。運動経験の不足も、もちろんあるでしょう。子どもが自由に

動きまわれる遊び場もなく、昔のように子どもたちが群れて遊んだ原っぱも広場も、森も林も

なくなってしまったのも原因でしょう。

そのうえ、道路は車であふれ、危険で目が離せないときたら、子どもは家のなかで静かにテレ

ビをみたり、積み木や玩具で遊んだり、絵本でもながめているよりほかに、しかたがないわけ

です。

住宅もすっかりかわってしまいました。昔のように、たたみの上で兄弟がとっくみあいをして

ころげまわれるほどのゆとりはなくなり、お隣や下の階の人たちに気をつかって、どたばた騒

ぐのはご法度というありさまです。

このままでは、日本の子どもたちはみんな、程度の差こそあれ、精神的心理的な抑圧のなかで、

情緒障害的傾向をもって育っていくことになります。

子どもたちに広場や原っぱを返してやり、思うぞんぶん、自由に動きまわり、大声で叫んだり、

仲間と群れて遊ぶ生活をとりもどしてやらないと、とりかえしのつかないことになると心配

しているのは、私はかりではないはずです。

太陽が嫌い

数年前、他園から移ってきた子で、「お陽さまが嫌い。お陽さまにあたると疲れるの」といっ

ていた三歳児がいました。

いつも室内で静かに遊んでいたらしく、ブロックや絵本、粘土、自由画、工作と、次々と自分な

りに遊びをみつけて数日はすごしていました。そのうち、友だちができ、いつのまにか外へ遊

びにでるようになり、今度はどろんこ遊びに熱中しだしたのです。

その子はそれまで週に一回は、東京の指圧の先生のところへ治療に通っていたのです。なんで

も、「指圧の心は母心」のテレビコマーシャルで有名な先生だそうです。ところが、二週間も

したら、まるで板のようにコチコチだったその子の背中は、すっかりやわらかくなっていまし

た。

このごろ、というよりもここ十数年といったはうが正しいでしょうか、外遊びやどろんこ、砂

いじりをいやがる子どもや、自分はやらないで傍観している子どもがふえてきました。

“おてんとうさまのありがたさ”を、口癖のように語りきかせる親など、今はもうどこにもい

なくなったのでしょう。私の幼い日、毎朝かならず裏の井戸端で顔を洗うと、太陽にむかって

両手をあわせて挨拶する祖母の背中をみて、私は育ちました。幼い私に“おてんとさまのめぐ

み”をことあるごとに語りかけてもくれました。

日本人は、昔から太陽信仰を大切にしてきた民族です。太陽と土と水と自然のめぐみによって

、日本人は何千年も農耕生活をいとなんできました。そして、ゆたかな日本の文化をうみだし、

育ててきたのです。太陽が嫌いという子どもが育ちつつある今の日本は、どこかが狂っている

のではないでしょうか。

物質万能主義というか、科学的合理主義というか、今の日本人の心を支配しているのは、物質

的ゆたかさと、科学や機械による便利さや快適さを求める思いだけなのでしょうか。

お金と物と機械さえあれば、人間の生活はなんとでもなるというような、あきれるほど単純な

唯物信仰や拝金主義が、日本人の心をすっかりむしばんでしまってはいないでしょうか。自然

のめぐみとか、太陽のありがたさ、いのちをはぐくむ大地への深い憧憶と畏敬の念といったも

のは、なくなってしまったのでしょうか。

おとなの心が荒涼としてすさんでしまい、自然からすっかり離れてしまったために、子どもた

ちは今、苦しんでいるのです。

子どもたちの心もからだも、病みはじめているのです。

無機質としらけ

無気力、無関心、無感動といった言葉が現代人の特徴といわれて久しくなります。子どもたち

のなかにもそうした傾向が強まりつつあるのを、私たちは深刻に受けとめなければなりませ

ん。

オーストリアのコンラート・ローレンツという心理学者(刻印づけ理論で有名)が、現代人には

成熟することをあきらめてしまう傾向の人がふえていると、指摘しています。

たしかにここ数年、目だつことのひとつに、母親としての意識や育児能力、育児への基本的な

かまえができあがっていないまま子どもをうんでしまい、なんとなく子どもと暮らしている

うちに幼稚園へいく年齢になったので、子どもを園にあずけているという母親がふえていま

す。

まるで荷物でもあずけるような感じの母親や、めんどうくさいけれどしかたがないから食事

だけは与えているが、こまかい身のまわりのことはいっさい気をつかわない、いや気がつかな

い母親、自分が気に入らないとムシャクシャして子どもにあたりちらし、気がおさまるとネコ

をかわいがるようにベタベタする母親、一日中子どものことが気になって、何から何までいち

いち子どもに干渉したり、口うるさくいい続けている母親などなどです。

これでは子どものほうはたまりません。まるでペットでも飼っているような気分の母親や、餌

だけやっておいてあとはほうっておく母親たちによって、子どもの心はズタズタにされてし

まうのです。

無気力、無関心の方向へ逃げこむか、無軌道、無鉄砲の方向につっ走るか、いずれにしても子ど

もが子どもらしい、のびのびとして、安定した生活をいとなむことは、とても不可能であると

思われるようなおそるぺき子育て-子捨ての子育てや子ども否定の子育てが、深く日本の社

会にしみこみつつあるのです。

私たちは、入園してくる子どもたちひとりひとりを、注意深くみつめ続けます。そして、子ども

の目つき、顔つきやしぐさ、遊び方、行動の仕方、話し方などをこまかく観察していきます。

どこかおかしいという、ひとりの先生のちょっとした直観についても、全員で話しあいます。

あるひとりの子どもが、全教師の観察の対象になることもしばしばあります。

できるだけ早く、その子が今おかれている状況を把握し、その子の問題を分析して、もし親に

問題があると判断したら、一日も早く親にあって徹底的に話しあっていくことにしています。

その子の一日は、その子の人生にとってかけがえのない貴重な一日であると同時に、親の身勝

手や誤った育児観や方法によって傷つけられ、そこなわれていく、その子の人格と人間性を守

るためなのです。

情緒欠損症

現代人は、からだを動かさなくなりました。

なんでもボタンひとつ押せばすむ時代です。私はときどき自動ドアでないドアの前で、開くの

を待って立っている自分に気づいて、あきれることがあります。

ほんとうにものぐさになってしまいました。自分のからだを動かさないということは、それだ

けではすみません。じつは感情の発達にも、おおいに影響があるのです。

子どもが遊んでいるのをみていれば、すぐ納得のできることです。よく動く子は、よくけがも

します。しょっちゅうあちこちをすりむいたり、こぶをつくったりしています。いわゆる、痛み

の経験を数多く積みあげているわけです。そういう子どもは、他人の痛みのわかる子に成長し

ていきます。反対に、けがをしたことがない、こぶをつくった経験がないという子どもはどう

でしょうか。

そういう子どもは、自分のからだを精いっぱいに動かして、思いっきり遊んだことのない子ど

もです。そして、当然のこととして、他人の痛みや悲しみを理解したり、人と共感したり、共鳴

したりという感情のはたらきの未発達なおとなになっていくのです。いわゆる、成熟しないお

となになってしまうのです。

近ごろ、笑わないお母さんがふえています。まわりの人たちがみんな楽しそうに笑っているの

に、ひとり、二人、苦虫をかみつぶしたような顔をしていますからとてもめだちます。

からだを動かさないという傾向は、感情の発達を妨げ、感情がもっとも端的に表現される場所

である顔の筋肉のはたらきをおさえこんでしまうのです。

顔の筋肉が動かないという生理的現象だけでなくて、じつは心が動かないという、人間にとっ

てもっとも致命的な症状が問題なのです。

電車のなかで、背中をのばして座ることができないで、のびすぎた足をだらしなく広げている

若者がふえています。日の前に老人が立っていても、ほんの数十センチ腰をずらせばもうひと

り座れるのに、そんなことにまったく気がつかない、というよりもそんなことを考えもしない

のです。

人間とは人の間とかきます。関係のなかで生きるのが人間らしい生き方なのですが、そうした

人間らしい関係概念など、まったくもちあわせていない“非人間”がふえている時代なので

す。

だからこそ、私たちはますます幼児教育を大事にしなければならないのです。

子どもを返せ!

毎年九月の新学期とともに何人かの子どもたちが、親の転勤などで転入してきます。わずか四

か月たらずなのに、いろいろと問題を背負って転入してくる子どもがいます。

たとえばある四歳の男の子ですが、転園して第一日目、突然泣きだしました。担任がわけをき

いても、ただ泣くだけでしたが、やっと「おしっこをしたい」というのがわかりました。

保育室の奥に便所のあることは知らせておいたのですが、その子の場合、四月から七月まで、

「おしっこしたい人、いってらっしゃい」という合図で“いかせられていた”のです。合図の

ないめばえに転園してきて、彼はどうしたらよいかわからず我慢していたのですが、ついに我

慢しきれず泣きだしたのです。一日目はとうとうおもらしをしてしまいましたが、二日目から

は「いつでもいきたいときにいっていい」ということがわかり、二度と失敗はしませんでし

た。

めばえの子どもは、「先生、○○していい?」という先生に許可を求めるいい方は、めったに口

にしません。「先生、裏山へ○○ちゃんと遊びにいってくるよ」とか、「先生、○○したいから

○○をちょうだい」などというように、自分のしたいこと、してほしいことをきちんと先生に

話せる子どもに育っていくのです。

四歳の二学期に、まさかお手洗いにいくのに先生の許可がなければいけないなんて、想像もで

きないことがあるんだということに、あらためて気づかされた一幕でした。

子どもはわずか四か月で、それほどみごとに“条件づけ”されてしまい、自主的な判断力や自

律的な生活能力の発達を妨げられてしまう可能性もあるわけで、おそろしいことです。

“しっけ”とか“訓練主義”などといいますが、子どもはきびしく“しつけ”たからといっ

て、まともに育つわけではありません。また、やたらと口うるさく“いってきかせ”て、効果が

あるものでもないのです。大切なことは、子どもが自分の判断で、必要なときに、必要な行動が

とれるように導いてやることです。やりたいときにやりたいことがやれるという体験が、まず

土台にあって、やってはならないことは何があっても絶対にやらないということが、“わか

る”子どもに“なって”いくのです。

今、子どもたちは“やりたいことを、やりたいだけやりぬいてみる自由”を大幅に制限されて

いるために、“ほんとうにやってみたいこと”をもたない無気力な子どもになってしまった

り、“何がやっていけないことか”が一向にわからない無分別な子どもであったり、“どこま

でやっていいか”というほどほどの手加減というものを、まったく知らない無鉄砲な子ども

であったりするのです。

子どもたちに、子どもらしい生活をする権利を全面的に返してやる勇気を、私たちおとなが今

こそ腹をすえてもたないと、たいへんなことになるのは、目にみえているのです。

4 三歳児をめぐって

三歳の自由

この世にうまれて、まだたった三年しかたっていないというのに、三歳児たちは、じつにどう

どうと幼稚園に通ってきます。

保育園の三歳児はもう0歳や一、二歳の子どもにくらべればずっと年長だという意識でみら

れているといいますが、幼稚園では最年少児としてあつかわれ、四、五歳児にかわいがられて

生活しています。

その三歳児と四歳児、五歳児とをくらべてみると、三歳児のほうがずっと早く園に慣れていき

、新しい環境に適応していく力をもっています。

私たちは三歳児保育を大事に考え(この三十年間にわずか二、三年だけ四歳児が多かったため

に三年保育のない時期があっただけ)、ずっと三歳児保育を園の宝として守り続けてきました

もう十年以上前になりますが、一年保育があったころには、五歳になって入園してくる子ども

たちより、はるかに早く三歳児たちは園生活に慣れていたものです。なぜそうなのかを、考え

たこともありますが、その理由のひとつは、五年問よりも三年問のほうが、親やまわりの環境

によって子どもの本性のそこなわれる度合いがはるかに少ないという、皮肉な事実があるよ

うに思います。三歳児のほうが、子どもが本来もっている好奇心とか探求心とかが、まだ失わ

れずに残されていると思わずにいられないのです。

また、年長児よりも三歳児のほうが、親の教育要求によるプレッシャー(圧力)をうけないうち

に、園にこられるのではないでしょうか。「ちゃんとしなければいけません」とか、「おりこ

うさんにしなさい」などという、親のしつけからうける“重荷”を、三歳児はまだそれほど自

覚的に感じていないのだろうと思います。

「まだ三歳だから」という親の思いと「もう五歳になったのに」という親の思いとでは、子

どもに対する要求度に雲泥の差があるのだと思います。

とにかく三歳児たちは、じつに自由で屈託なく園内を歩きまわり、すべてをあるがままに素直

に、しかもおおらかに自分のものにしていくのです。おもしろいこと、楽しいこと、興味をひか

れることがあれば、ひたすらにそのことに没頭し集中していく、子どもらしい真にのびのびと

した自由をもっています。

四、五歳になってくると、もう親からうけとったさまざまなプレッシャーを“らく印”のよう

に背中に背負っている子どもがふえてくるのですが、三歳児ではそんな子はまだきわめてま

れといえるでしょう。

人間のはじまリ

入園当初の三歳児たちは、すこしも保育室にいません。てんでんばらばらに、ひとりひとりが

まったく自分勝手に、自分のしたいことをし、いたいところにい、いきたいところにいってし

まうのです。

猛烈な好奇心にかられて、九千平方メートルの園庭を隅から隅まで探索して歩きまわり、年長

児や年中児たちのいる保育室から事務室そのほか、ありとあらゆる場所に出没して、すべての

ことを“ためして”歩いています。何から何まで、いっさいがめずらしいのです。

私たちは三歳児のそうした探索行動を、たいへん大事なことと考えています。勝手に家に帰っ

てしまわない限り、園のすべては子どものものであり、子どものためにあるのであって、危険

なこと以外は、何をしてもどこへいっても完全に自由であるという“最初の感覚”を子ども

たちがしっかり自分のものにしていくことが、その後の園生活を”自分のこと“として主体

的、自主的に”自分自身でつくりあげ、つかみとっていく“ための第一歩であると考えるから

です。

人間は自分の足で立ち、自分のカで自分の人生を歩まねばなりません。人からの借りものの人

生や、他人の命令や指示、強制によって、”他人の人生“をおしつけられて生きるなどという

ことは、絶対に人間にふさわしい生き方ではないのです。

三歳という”人聞のはじまり“の時期に、私たちは子どもたちひとりひとりが、自分の人生の

主人公として、自分自身の生活を自分自身の手と足とからだのすべて、心のすべてをもちいつ

くして、”自ら生きる“という方向においてつかんでくれることを、もっとも大切な課題とし

ているのです。

そのために、私たちは三歳児だけではなく、四、五歳児たちも含めて、九千平方メートルという

広い園庭に拡散している子どもたちを、”わがクラスだけ“という閉鎖的な目ではなくて、全

園児の全生活を全教師で責任をもってみまもっていくという、”ひらかれた目と心“をもっ

た教師集団のあり方を同時に追及しているのです。

「きょう、裏山であなたのクラスの○○ちゃんが、こんな遊びをしていたわよ」というような

伝えあいと、その遊びがその子にとってどんな意味をもち、どんな問題があるかという分析的

な話しあいを、日常的に大事にしているのです。

毎日、十分に時間をかけておこなわれる職員会議の内容は、そうした具体的な子どもの遊びの

事実をどう分析し、評価して、その子の課題をあきらかにしていきながら、指導の手だてを考

えていくかということに、多くの時間が費されることになります。

そうした日常的な努力が積みあげられていくことなしに、こんな広い園庭で、自由に遊びま

わっている子どもたちへの指導はありえないのです。

子どもたちの人間としての育ちを支えていく保育のいとなみを、責任をもってはたしていく

ために、めばえの先生たちは「楽しくなけりゃ、保育じゃない」と一方でいいながら、他方で

はじつにきびしくたがいにみつめあい、ときには子どものことをめぐってはげしい批判もし

あうのです。

子どもに責任をもつということは、じつにおそろしいほど厳粛なことがらなのです。

ここにいたい

私は三十年の園づくりをふり返るとき、いろいろな誤ちをおかしてきたことについて、子ども

たちにわびたい気持ちをもつと同時に、子どもたちが許してくれるだろうという気持ちも同

時にわいてくるのを感じます。

若気のいたりでつっぱしりすぎたことについて、またとんと気がつかなかったことについて、

許してもらいたい、許してくれるだろうと思っています。この三十年をとおして、私は子ども

を人間として育てようという思いを見失うことはなかったと、自負しているからです。

最近、ある研究会で発見したことがあります。

わりに多くの園で“席決め”がおこなわれているというのです。子どもたちの座る場所が教

師によって決められているのです。そういうことを考えてもみなかった私は、びっくりしまし

た。

子どもたちは自分の席が決まっていると安心するからとか、席のとりっこをしてけんかした

りしなくてよいからと、理由はいろいろあります。しかし、「私はここにいたい」というのと

「あなたはここにいなさい」というのとでは、子どもの生活における価値基準はまったく違

うのです。

園生活を自分のものとして主体的につかんでいく方向と、他人からの借りものとしていちじ

借用させていただく方向と、まったく百八十度の違いがそこにあるのです。

園におけるさまざまた活動について、子どもが自分自身の選択基準にしたがって、「おもしろ

そうだからやってみよう」という主体的な興味や意欲をもって取り組んでいくようにしむけ

ていくのか、それとも教師がすべてを決めて、これをやったら次はこれをやりなさいというぐ

あいに、指示と命令にしたがって子どもを動かしていくのかという、教育観の分かれ道がそこ

にあるのです。

「私はここにいたい」というのは、子どもにとってぎりぎりの自己主張です。自分のからだを

おく場所の自由、自分がいたいところにいられるという場所と時間の自由は、子どもにとって

これほど基本的で、これほどつつましやかで、小さな権利への自己主張はありえないのではな

いでしょうか。

そんなに小さな人間的自由すら認められないとしたら、子どもはどこに人間として育つ権利

をもちうるのでしょうか。

私は入園したばかりの子どもたちに、どこにいてもいい、何をしてもいい、いたいところにい

て、したいことをする、したいことがなければしなくていい、ということをわからせていくの

を園生活の第一歩と考えています。

そこから、子どもが自らの足で歩みだしていくのを“信じて”待つのです。

子どもはまさに人間として自分自身の意志をもち、自分自身の力で自らの人生にたちむかっ

ていく生活を“そこ”からはじめていってくれるのです。

その尊厳に満ちた足どりを、おとなが妨害したり、泥足で汚したりしては、絶対にいけないの

です。

人格へのめざめ

三歳児であっても、いわゆる管理主義的な保育のなかで、行動を規制され、自由を奪われて、“

飼いならし”というか“餌やり保育”というのか、教師が中心になってすべて形式的にとり

しきって、決まりどおりの生活を決まりどおりに“やらされる”式の伝統的、固定的な教育を

うけると、前でふれた「指圧の心は母心」の先生にお世話になった子どものように、心身に異

常をきたすことになります。

決められていることを、決められているとおりに子どもに与えていくことが、規則正しい生活

の仕方を教えることになるとか、いやがってもしなければならないことは、しなければならな

いときにきちんとやらせることによって、けじめのあるしつけができるとか、いろいろと“し

つけ論者”のいい分はあるようですが、私たちは子どもを“しつける”前に、子どもに“めざ

めさせる”ことが大事だと思っています。

子どもに、自分のやれること、できることに“めざめ”させ、気づかせていくのです。

子どもが、自分の力に気づき、めざめていく、そのプロセスのなかで“しつけ”のポイントを

おさえていくのです。そして、何よりも大事なことは、子どもが“やらされている”“おしつ

けられている”というような、ほかからの強制や抑圧、指示、命令を感じさせるような、作為的

指導をできるだけ避けるということです。

そのかわりに、子どもが「やった!」「やれた!」という成就感や成功感をもち、自分の力に自

信と満足感を感じるような“行動”のできるチャンスを、できるだけたくさん経験していく

そのプロセスのなかで「やってはいけないこと」「ここまではいいが、その先はだめ」とい

うような「ほどほどの手加減」についての人間的な感覚を、言葉でなくからだで覚えていく

ような指導を大切にするのです。

私たちおとなが忘れてはならないことのひとつは、子育てとか教育とかというものの目的は、

子どもを人間として育てることであって、植木の手入れをするように“仕たて”ることでも

なければ、動物飼育のように“手なずけ”たり、“しこんだり”するのではないということで

す。あるいは、木工職人がやるように、あらかじめ決められた設計図のとおりに木を刻んで

いって、形どおりに製品を組みたてていくような、手順どおりにやればすむような仕事とはわ

けが違うのです。

子どもが自分の内部にひそやかに眠っているさまざまな力にめざめ、また、ときにははげしく

ふきだしてくるようなエネルギーを自分の内に感じ、自分のなかの自分自身にしだいに目を

ひらき、自分というものをしだいに力強くからだで感じとっていく、そのプロセスは私たちお

となの目にはみえないのです。

ただ、子どもは確実にそのようなプロセスを、自分自身で踏みかためながら成長しつつあるこ

とだけは、私たちおとなが絶対に忘れてはならないことなのです。

子どもは一個の尊厳に満ちた人格として、今、私たちの前に“存在”しています。

子どもは自分という人格的存在を、おとなたちにむかって、まだ自分の言葉や論理で声高く主

張できないのです。おとなが、その目ざめを大事に受けとめてあげる以外に、子どもは人間ら

しい育ちへの出発の日々を、ゆたかにうたいあげていくことができないのです。

かかわりにひらかれて

子どもたちはゆたかに遊びきる園生活のなかで、さまざまな力を身につけていきますが、その

なかでもっともめざましいのは、社会性の発達ということではないかと思います。

社会性とは、関係のなかで生きる人間的な感覚のことをいいます。

子どもたちは、じつに激しいけんかをします。「めばえの子は、兄弟げんかみたいなすごいけ

んかをする」といわれます。最近はやりのいじめではありません。

正々堂々となぐりあい、取っくみあうのです。ルール違反をした乱暴もの、弱いものいじめを

したボス的な子らに対して、“弱い子”がぶつかっていくようになります。ひとりが負けそう

になると“タッチ”といって次の子が相手になり、次々と交代してとっちめていくのです。

子どもたちがたがいに了解しあって、自分たちで決めたルールが破られたとき、彼らはじつに

きびしくそれを批判していきます。

近ごろの子どもは、まともなけんかをしなくなったといわれますが、それは違います。やりた

いだけやることが許されず、すぐにおとなが干渉して白黒をつけてしまのうがいけないので

す。

子どものけんかに親が口をだすなと、昔の人はいいました。まさに、そのとおりなのです。

子どもは自分で納得するところまで、問題を追求していくことによって、「なるほど」と自ら

を説得し、「ああ、そうか」と心に感じとるものがあって、はじめて社会約な関係における身

の処し方や、問題処理場面における適切な判断力などを学んでいくのです。

そういう体験が子ども時代にまったく欠落したまま成長していくと、いわゆる手加減を知ら

ない人間、相手の立場や痛みのわからない人間、自分勝手で相手を理解しようとしない人間な

どになっていくのです。

子ども時代におおいにけんかをしたり、泣いたり泣かせられたり、やっつけたりやられたりと

いった“原体験”を積んでおくことが、その後の人生にどれほど役にたつか、はかりしれない

ものがあります。

幼児期のけんかは、仲がいいからできるのです。

たがいに心をひらき、相手の心が自分の心とひびきあい、わかりあえるからけんかができるの

です。相手のわがままや自分勝手なふるまいを、自分のこととして真剣にうけとめ、まるで自

分のわがままや自分勝手のように感じとれるからこそ、子どもは“おこる”ことができ、けん

かもできるのです。

“許せないこと”として心にいきどおりを感じるのは、じつに人間的な感覚です。ひとごとと

み、関係のないことと感じる、計算ずくのひややかにさめた心、それは幼な子のものではない

のです。

子どもははげしくけんかした後、すぐ仲なおりしてまた遊びはじめます。まるでさっきのけん

かが、うそのようです。

しかし私は、そんな子どもの姿をすばらしいものと思い、尊いものと思います。

“許し”ということを、こんなにみごとにやってのけられる、そのことのなかに、私は“神の

似姿”(イマゴ・デイ)をみるのです。

保育の原点

私たちは、三歳児保育に幼稚園教育の原点をみる思いがします。

この三十年間、私たちは三歳児保育をそれこそ珠玉のように大事にしてきました。

ひとクラス七、八名か十二、三名の時代が二十数年以上続いたのですが、人件費にも満たない

この三歳児保育の子どもたちが、三年間の園生活においてみごとに幼児期としての開花を示

してくれ、子どもとはまさにこのようなものだと、私たちに教えてくれるその楽しみと感動の

ゆえに、私は三歳児保育こそ幼稚園の宝であるといい続けてきました。

三年も幼稚園にいたらボスになって困るでしょうとか、三年目にはやることがなくなるので

はなどという“素人”の質問がよくなされます。ときには幼稚園関係者からさえだされるの

です

が、事実はまったく反対です。ボスになるどころか、五歳児としてもっとも充実した、幼児期の

子どもの熟成し完成した姿を私たちはみ続けてきました。三年目にはやることがなくたると

いうのは、教育をただ“与えること”としてしか考えていない“素人”のむだな心配なので

す。

教育を子どもの可能性を“ひきだす”という方向で考えているものにとっては、三年目こそ

じつにゆたかに充実し、充満し、みのりゆたかな収穫を喜びと感動をもって“与えられる”年

になるのです。三歳児時代に思うぞんぶんに自分のしたいことをして、自己発揮と白已解放を

なしとげた子どもたちは、続いてじつにゆたかに自己を獲得し、自己を実現していく方向に

育っていきます。兄弟げんかのような、激しいけんかのできる友だちができるということ、そ

のひとつだけをとりあげても、子どもたちがどれほど自由になり、十分に自己表現や自己主張

できるように育っているかがわかります。

三年保育の五歳児は、幼稚園全体の生活をひっぱっていく機関車なのです。園生活の中核とし

て、あらゆる活動においてモデルとなり、目標となる存在なのです。

私は将来幼稚園は、すべて三年保育になるのが理想だと思っています。そのためには、国の財

政援助が大幅に増額される必要があります。

三歳児ニクラスが四、五歳児でひとクラスに合流していくというかたちを考えると、三歳児四

クラス六十名、四、五歳児四クラス百二十名、合計八クラス百八十名という幼稚園の理想像が

できあがります。これで園経営を成立させるには、国の補助金はまるで夢のように飛躍的な増

額がなされなければなりません。幼児教育にそれだけのお金をつかうことのできる政治が実

現すれば、日本は世界に類をみない、すばらしい国になっていくことはまちがいのない事実で

す。

5 現代の保育をきる

小羊のように

聖書のなかに「彼はほふり場にひかれる小羊のように、また毛を切るものの前におかれる小

羊のように、黙して口をひらかなかった」というキリストについて語った有名な言葉があり

ます。

キリストの場合はそれでよいのですが、現代の子どもの場合には、それでは絶対にいけないの

です。死刑囚として断頭台にひかれていく囚人のように、生きる望みをすべて断ちきられ、首

をうなだれて黙々とひきずられていくような生活を子どもたちにさせてはならないというこ

とは、だれでも賛成してくださるでしょう。

しかし、こと教育ということになると、おとなたちはある意味で“盲目”になり、またたいへ

んな“ばか”になってしまうのです。私はばかといいましたが、本心は“気狂い”とさえいい

たい気持ちです。

子どもをまるでサーカスの動物のようにあつかって、“しこんで”いるではありませんか。

ボリショイ・サーカスのクマはじょうずに後ろ足で立って、“芸”をします。あれは、熱い鉄板

の上を後ろ足だけ靴をはいて歩かせて、熱さに耐えかねたクマが、靴のはいていない前足をも

ちあげると、「パチン」とムチをならし、同時にアメ玉をひとつ口に入れてやるという訓練の

結果、クマが“しこまれる”といいます。そのように“条件づけ”(インプリンティング)され

たクマは、やがて「パチン」とムチがなっただけで、前足をあげ後ろ足だけで歩くように“さ

せられて”いくのです。

私は今日まで、じつにたくさんの幼稚園や保育園の先生方と、かぞえきれないほど多くの研究

会で話しあったり、研究発表をきいたりしてきましたが、そのなかで、まるでボリショイ・サー

カスのクマにおこなう訓練と大同小異というよりも、まったく同じではないかといわざるを

えない“しこみ”の保育がおこなわれていることに、暗然たる思いを何度となくさせられて

きました。「わが園は、子どもたちに○○をさせています」とか「○○を教えています」など

といううたい文句で、子どもをしこみ、刻印づけや条件づけをして、動物飼育的保育をやって

いる園が、意外に多いのです。

子どもたちは“小羊のように”飼いならされて、教師の指示や命令、合図のままに“動かさ

れ”たり“やらされ”たりしています。そういう非人間的状況のなかで、“条件づけ”と“刻

印づけ”をされて育つ子どもたちの心に、おそるべき“怨念”が植えつけられていくのでは

ないでしょうか。じつに、そらおそろしいことです。

餌やリ保育

「先生、何やるの?」と子どもたちに頼りにされるのは、なんともいい気持ちなものです。

「先生、○○していい?」と許可と同意を求められると、つい先生は「ああ、いいですよ」と子

どもたちのペースにあわせたくなってしまうのです。

幼稚園に入園してくるまで、もっぱら母親と子どもだけのぴったりと密着した関係と、何もか

も万全の配慮のなかで生活してきた子どもたちは、やたらと先生に依存し、頼りにしたがるも

のです。私はそんなあまったれた子どもが大嫌いで、「うるさい!そんたこといちいちきくん

じゃないの!自分で決めればいいだろ!」と“つき放しの保育”を心がけたものでした。

おしっこから自由画、積み木、砂遊び、なんでもいちいち許可を求め、同意をえにくる子どもを

どなりつけたこともあります。「自分のやりたいことがあったら、いちいち先生にきかなくて

いいから、自分でやっていいんだよ。やりたいことをやれよ!」と。

しかし、今、一部の幼稚園でおこなわれている保育は、むしろ逆のかたちのものが多いのです。

子どもは先生の許可や合図を待って、決められたことを決められたとおりにやるというかた

ちの保育が、おこなわれているのです。

明治以来、日本の学校教育は教師を中心にすすめられてきました。子どもはみんな先生のほう

をむいて椅子に座り、先生は黒板を背にして子どもたちにむかいあうのです。教室は先生が支

配する王国であり、先生は国王であり、裁判官であり、検事であったりします。すべてが先生の

思いどおり、計画どおりにすすめられていくのです。

私は、そんな教育の姿を“餌やり”としか考えることができません。先生の与える“餌”をた

だ一方的、受け身的に“与えられる”教育というのは、人間の教育にふさわしいものではあり

えないのです。

人間に飼育されている動物園の動物たちは、野生動物としての本能を失い、生気を失ってしま

うといわれますが、餌やり保育を受けている子どもも、まったく同じような状況に追いこまれ

ていくのです。

幼稚園の母の会に講演を頼まれることが多いのですが、そんなとき、私はなるべく早めにいっ

て、その園の子どもたちのようすをみせてもらうようにしています。

三学期後半だというのに、登園してきた五歳児たちが、所在なさそうにウロウロしながら先生

が何か指示をだすのを待っている姿などをみると、私は悲しくなってそのまま帰ってきたく

なります。

餌を待っている動物の姿、それは人間の教育にあってはならないものなのです。

とじられた保育

数年前に結婚のために退職した先生が、ひょっこり訪ねてきました。さる県の公立幼稚園に就

職した彼女が、悩みをぶちまけてくれました。

五十数名の五歳児たちがニクラスで生活しているのだそうです。彼女は、そのうちのひとクラ

スを担当しているのですが、ほかのもうひとつのクラスの担任は、自分のクラスの活動をいっ

さい秘密にして、完全にこちらに背中をむけたクラス運営をしているのだそうです。

彼女のクラスの子どもがたまたま隣のクラスにはいっていくと、とたんに追い返されてしま

うのです。隣のクラスの子が遊びにきたときは、最大限の歓迎をして、おおいに遊んだりする

のですが、じきに担任がよびにきて「あたたのクラスはここじゃないでしょ!きなさい」と手

をひっぱってつれ返ってしまいます。

年度末に製作帳を整理して、ひとりひとりの子どもに家庭にもち帰らせるのですが、なぜか隣

のクラスは、職員会議で打ちあわせをしてきた製作活動の倍くらい多くの分量の、みごとな製

作帳をもち帰らせるのです。

「もう、いやになっちゃう」と、彼女はぽやきました。

めばえでは、三歳、四歳、五歳の子どもたちが、まるっきり自由にどこのクラスでも勝手に出入

りし、どこかでおもしろそうなことをやっていると、自分のクラスに帰ることなんか忘れて入

りびたりになっていたりしても、先生たちはまったく気にしないで、あたりまえのこととして

保育していたのに、なんという違いだろうかというのです。

先生がたがいに背をむけあって、“わがクラスのわが子どもたち”という姿勢で、はりあった

り、相手の鼻をあかしてやろうというような気持ちで保育をしていたら、子どもたちの人間ら

しい育ちはどうなるんでしょうという彼女の悩みは、まことに深いものでした。

“とじられた保育”というほんとうに貧しい現実が、まだまだ私たちの周囲に存在している

ということに、大きな痛みを感じながらすごした数時間でした。

子どものすばらしさに心をひらいていくような、ひとつひとつの小さな子どもの事実をとも

に話しあっていけるような仲間関係を、職場でつくっていく努力を積みあげていこうよと、彼

女をなぐさめたのでした。

こまぎれ保育

子どもにとって何がイライラするかといえば、せっかくやりかけた遊びがこれから楽しく盛

りあがろうとするときに、“お集まり”とか“朝の集会”とかということで、レコードが鳴っ

たりベルの合図があったりして、いっきょにだめになってしまうことです。

「ちえっ、つまんないの!」という体験が何回かくり返されていくうちに、子どもは“合図”

によって遊びが“終わらせられる”ことを学習していきます。

すると、その時間が近づくと“遊ばなくなる”子がふえてきます。

どうせやったって、すぐだめになるという“あきらめ”や“しらけ”のムードが子どもの心

を支配するのです。

それでも遊び好きの子どもは、時間いっぱい遊ぼうとします。しかし、ついに“時間”はくる

のです。

すると、子どもたちは「えーい」とばかり、いままでやっていた遊びを破壊しにかかるのです

大勢の仲間と協力して、じつに楽しそうに大きな山をつくって遊んでいた子どもが、くやしま

ぎれにみんなでつくった山を、足で踏んずけてめちゃくちゃにこわしたりするのです。

もっと許せないことは、それまで何の関係もなく、別のことで遊んでいた子どもが近よってき

て、「お集まりだぞー」などといいながら、みんなでつくって楽しく遊んでいた砂山を、足で

めちゃくちゃに踏みつぶしてしまったりすることでした。

さらに、目先のきく子どもとか、時間感覚のすぐれた子どもは、お集まりの時間が近づくと、

スーッとその場をはなれてしまい、「僕はやっていなかった」という顔をして、かたづけの仕

事から逃げてしまったりするのです。

私は、子どもたちの怒りと悲しみに満ちたそのような行動をみるのが、たまらなくいやでした

そして、保育室に“集められた”子どもたちが、先生の指示にしたがって先生が決めたその日

の保育計画をやらされていく姿は、なんともやりきれないみじめなものにみえたのです。まる

で収容所に入れられているような生活が、そこにあるのです。

時間を区切られ、次々に先生の命令によって、こまぎれにされた“餌”が与えられていくよう

な、非人間的ないとなみが、はたして子どもを人間として育てていくために、どれだけ役にた

つのだろうかと考えたとき、私は断固としてここには人間の教育はないと、決断せざるをえま

せんでした。

先生を中心とした、おしつけのこまぎれ保育をやめようと、先生たちと誓いあったのはたしか

昭和三十七年ごろ、幼稚園をはじめてから十年ほどたってからでした。

目玉保育

園児の減少傾向がいよいよ深刻になるなかで、園児獲得のためにさまざまな試みがなされて

います。景品つきの大売りだしや叩き売りを思わせるような、おおよそ教育といういとなみと

は縁遠い、よびこみまがいの行為までとびだすしまつです。

子どもたちに製作をやらせて、せっせと家庭に“おみやげ”をもち帰らせて、親の歓心を買お

うとしたり、何か“特別なこと”をやらせて、それを“目玉”にして売りこもうとする保育を

してみたり、まったく親をばかにした所業が目につく昨今です。

“めあき千人、めくら千人”が三十年間をとおしての私のモットーでした。

景品やおみやげ、目玉商品保育でつられていく親がいても、それはそれでしかたがない、ほん

とうに、自分の子どもの現在と未来の幸せな生活を考える“めあき”の親がいるはずだとい

う信念を、私はことあるごとに語り続けてきました。

教育の成果というものは、二十年、三十年あるいはもっと長く二世代、三世代もたってから評

価されるものであって、目先の効果を求めるのは根本的に誤りなのです。即効薬のような、イ

ンスタントの効果を期待する人は、めばえに子どもをよこす必要はないのです。

そういうタイプの人は実際にいるもので、私たちは十分な時間をかけて話しあったうえ、退園

してもらったことが数例あります。

ときには、私は若い母親をどなりつけることもあります。「あなたのそんな育て方が子どもを

だめにしている。私のいうことがわからないのなら、あしたから子どもを幼稚園にこさせない

でもらいたい」と私はどなりつけます。

私は子どもがかわいいし、大好きです。だからこそ、いいかげんな育て方をしている親には我

慢がならないのです。

この三十年間で、夫婦とも稼ぎをしていた母親に仕事をやめてもらったことが、前でもふれま

したが二例あります。

子どもの人間らしい育ちを支えるために、私は親と妥協したり、親に迎合したり、親の歓心を

買おうとしたり、そういうことは絶対にしてはならないことと思っています。私たちの仕事は

、幼稚園で子どもたちと楽しく毎日遊んでいればそれでいいというのではないのです。

子どもの後ろにいる親たちこそ、問題なのです。

子どもが人間らしく、人間であることにふさわしく、そして人間でありえたことを精いっぱい

にうたいあげながら、一日一日を心からの喜びと充実感に満ちて生活していくことができる

ように、子どもの権利を守りぬいていくこと、そのためにはたとえ親であっても、いや親であ

るからこそ、子どもの魂を傷つけるようなことは許せないのです。

人格性を問う

幼稚園が子どもたちにとってほんとうに楽しい、充実した生活の場になるためには、教師を含

めて園そのものの人格性が、つねにきびしく問われなければならないと思います。

教師ひとりひとりの人格性がつねに問われているような職場でなければ、幼稚園とか学校と

かというものは、子どもを人間として育てていくことはできないと、確信しているからです。

ひとりの教師が子どもの心を傷つけた場合、それがすべての教師の痛みとなって納得のいく

までたがいに語りあい、問題の原因を追求しあっていくような気風がなければ、教育というい

となみは成りたたないのです。みてみぬふりとか、負け犬どうしの傷のなめあいのような安っ

ぽいなぐさめや同情などでは、人間の教育というこの重い仕事に耐えられるはずがないので

す。

しかし現実には、子どもを傷つけたのではないかという問題意識すら、容易には表面化してこ

ないような、人間否定と人間不在の状況が、今の教育現場をおおっているように思えてなりま

せん。子どもをおさえこみ、計画のなかにとじこめて、何から何まで一切合切めんどうをみる

ことが“よい教育”だと思いこんでいる親や教師が、なんと多いことでしょうか。

何くれとなく言葉をかけ、四六時中子どもをコントロールして、“よくかまって”くれ“しこ

んで”くれるのが、よい教師であり園であると思いこんでいる人たちがなんと多いことで

しょうか。子どもから好奇心を奪い去り、自由な探索行動や冒険をしてみようというような気

力をぬきとっている“まがいもの”の“狂育”をありがたがっている親たちがなんと多いこ

とでしょうか。

子どもたちが自分白身の人格の主人公として育つことを、ありとあらゆる方法で妨げている

ことにまったく気づかないでいるのです。

教育とは、子どもたちに自分自身で育つことを教えるいとなみなのです。子どもが自分の意志

と力によって、自分自身の主人公として、自分の人格の主体として育っていくのを支え、援助

していくのが教育なのです。手とり足とり、一から十までかんで含めて“教えて”やったり“

指導して”やったりするのは、子どもをだめにしてしまうことなのです。

子どもが自分で自分の世界を発見し、自分でその世界をつかみとっていくような生活をさせ

てやることが、教育の最大の課題なのです。教育におけるこのもっとも重要な課題を忘れてし

まい、やれ文字指導だ、鼓笛指導だ、人類の遺産である文化を伝えるのだといって、子どもを指

導の枠のなかにおしこんでしまうのは、人格の発達を否定し、人間としての成長をおし殺して

しまうことにほかならないのです。

そうした子ども殺しの教育がもたらすおそるべき結果を考えるとき、身の毛のよだつ思いを

します。おとなのつごうによって区切られ、一方的に決められた時間割りのなかで、指示と命

令によって“動かされ”ながら、一定のプログラムを消化することが生活なのだと思いこま

されている子どもたちは、ただひたすら従順であることが美徳であると教えられているので

す。

しかし、そのような非人間的な生活のなかではぐくまれていくものは、いったいなんなので

しょうか。すでに、その答えは数多くの悲劇的な事実によってだされているのです。人間や環

境に対するうらみを、はぐくむような教育は絶対に許されてはならないのです。私は園と教師

の人格性を、さらにきびしく問い続けなければならないと思っています。

学問とは“問うことを学ぶ”とかきます。

私たち教師が、つねに自分自身のありようをきびしく問い続けていく姿勢をもたない限り、子

どもたちに“問うことを学ばせる”ことはできないのです。

教育を支えるもっとも大切な条件は、人格性への問いだと私は思っています。

6 今、幼稚園とは

子どもの世紀

アメリカの教育家エレン・ケイが、今世紀のはじめ、二十世紀は子どもの世紀であると訴えま

した。はたしてそうでしょうか。

遊び場はなくなり、自然は失われ、仲間と群れて遊ぶ空間も時間もなく、子どもたちは今、孤立

しひよわになり、感動も喜びも奪われてただ管理され、飼育されているような状況のなかで、

気息えんえんとして息絶えんばかりの姿になっているといったら、大げさでしょうか。

幼児たちが、もし大学生のように全学連とか核なんとか派とかという組織をつくれるとした

ら、どれだけの親や幼稚園、保育所がそのきびしい批判の前に生き残れるでしょうか。

おそらく、その結果は惨憺たるものになるだろうと思います。

おとなたちは、あまりにも子どもの問題をなおざりにしてきはしなかったでしょうか。

教育制度や学校づくりは、充実してきました。全国どこへいっても鉄筋コンクリートづくりの

、りっぱな学校が建つようになりました。

しかし、教育は制度や入れものだけで成りたつものではありません。何よりも大事なものは、

そこに生きている人間たちの“人間らしい”生きざまや、人間らしい思いであり、さらにその

思いからうまれ、形成されてくる“人間が生きるにふさわしい”環境です。

都市化のすすむなかで、経済性や効率性だけが優先し、合理性や利便性だけが大事にされて、

子どもたちの育ちにとってかけがえのない自然や広場が、どんどん失われてきた戦後の日本

史は、子どもの受難史そのものであったと、私は思うのです。

ある学校で事故が起こったというと、一斉に馬とびが禁止され、廊下で走ること、左側を歩く

こと、校庭でボールをけることなどが、次々と禁止されてきました。

ギャンブル性が問題にされて、メンコ、ビー玉、べーゴマなどが子どもの遊びから姿を消し、テ

レビの普及や進学塾の加熱とともに、子どもの辻遊びや集団で群れて遊ぶ姿はなくなってき

ました。

都市改造にともなって、あらゆる生活道路に車がはいりこみ、路地裏の遊びはなくなり、子と

もたちが友だちの家へ遊びにいく自由まで、ほとんどなくなってしまいました。

子どもは、手も足もその自由を奪われ、同時に仲間と群れて遊ぶ生活も否定され、自然や原っ

ぱで思うぞんぶんころげまわる自由もなくなってしまっています。

子どもの世紀どころか、子殺しの世紀こそ二十世紀ではなかったでしょうか。

残された広場

今、幼い子どもたちにとって、残されている遊びの広場は、幼稚園や保育所だけではないで

しょうか。

子どもたちが、ほんとうにのびのびと遊びまわれることのできる広場は、もう都市にはそれほ

ど残されていないのです。町がつくる児童公園のほとんどは、あまり子どもの遊びにあったも

のではありませんし、だいいち子どもの生活圏から離れすぎていたりするのです。

子どもたちにとって、幼稚園こそ真の子どもの楽園でなければならないのです。

幼稚園の始祖、フレーベルが「キンダー・ガーデン」(子どもの庭、子どもの庭園)と名づけた

ときの、その心の思いと願い、フレーベルがめざした幼児教育の理想が、今こそほんとうに問

いなおされなければならないときだと思います。

考えてみると、昔の日本人はずいぶんとゆたかな子育てをおこなってきたのではないでしょ

うか。

インドの詩人タゴールが、明治期の日本の子どもたちをみて、日本人がほんとうに子どもを愛

し、大事にしているようすに感服したことが伝えられています。大勢の仲間たちと辻遊びに興

じ、さまざまな伝承遊びを年長の子どもたちが年少児たちに伝えたりしながら、群れて遊んで

いるさまにタゴールは、世界に類をみない子どもを大切にする国として、日本を評価したので

す。

しかし今、そんな子どもたちの姿は巷から完全に姿を消しています。金魚のフンみたいに、年

長のガキ大将のあとにくっついて遊びまわっていた子どもたちの集団は、もう過去の神話に

なってしまいました。

子どもたちは高度に発達した科学技術時代が提供している、テレビゲームやリモコン玩具の

とりこになって、断絶した孤立状態のなかで“自分だけの楽しみ”にときをすごすという、老

化現象とでもいったらいいような、閉鎖的な生き方に追いこまれているのです。

私たちは、子どもにそんな貧しい、そんなせまい、そんな小さな世界で子ども時代をすごして

もらいたくないのです。子どもは、子ども時代を精いっぱい、ぜいたくにすごさなければいけ

ません。

遊びの時間のぜいたくさ、遊び空間のぜいたくさ、遊び仲間のぜいたくさ、そんなぜいたくが

昔の子どもにはふんだんに与えられていました。今、幼稚園こそ、子どもたちにもっともぜい

たくな生き方を、ゆたかに保障していく場所でなければならないのです。

日本民族の将来は、幼児時代のゆたかな育ちにかかっているのです。

炸裂してくるもの

私たちは、子どもの自由な遊びの生活を大切にしています。

それは子どものもつ可能性や、子どものなかにかくされている力の存在を、ほんとうに信じて

いるからであり、さらにこの三十年をふり返ってみて、私たちは子どもにうらぎられなかった

からです。

子どもは、ひとりひとりものすごい“何か”をもっています。その“何か”がいつ、その子の

なかから“炸裂して”くるのか、私たちには“その日、そのときはわからない”のです。

その“かくされている時間”に対して、私たちは謙虚でなければなりません。私たちには“み

えない時間”であり“みることの許されない時間”を、子どもたちは一生懸命に生きている

のです。

子ども時代というのは、人間がほんとうに真剣に生きている時代なのです。

子どものまじめさ、純粋さに対して、私たちおとなは腹黒い、うす汚れた疑いのまなざしを投

げつけるのをやめて、子どもの真剣さを丸ごと受容し、受け入れていこうとする心のかまえを

もつ必要があります。

そして、先入観や偏見を捨てて、あるがままの子どもを、あるがままにみつめ、あるがままに認

めていくのです。

そのとき、私たちにみえてくるものは、子どもひとりひとりのなかに、あるときはまどろんで

いる力であり、あるときはほとばしりでようとして、出口を求めてうっ積している力です。

その力が早く子どもの外にあらわれるようにと、おとなはよけいな手だてをしてはならない

のです。おとなが手をだし口をだすと、子どもの内部の力は逆に弱まったり、消えてしまった

りするのです。子ども自身にまかせることしか、おとなにはできないのです。

子どもの心のなかに、おとなが泥足で踏みこんだり、汚れた手をつっこんで、子どものなかに

あるものを早くひきだそう、のばしてやろうなどとよけいなことをするものだから、子どもの

可能性が殺され、否定され、消し去られてしまうのです。子どもはまじめで純粋だからこそ、じ

つにかんたんにおとなの手や口によってだめにされ、くずにされてしまうのです。

私たちは子どもの心のなかに秘められ、かくされているさまざまな可能性や力を、子ども自身

が気づき、自分でそれらをつかみとり、自分でひきだしていくのを、わきから助け支えるだけ

でいいのです。いや、それだけのことをするのが、じつはほんとうにたいへんなことなのです。

子どものなかからわきあがり、吹きあげ、炸裂し、噴出してくる力の存在を信じ、そのときを“

信じて待つ”ことのつらさ、むずかしさを知ることから、教育といういとなみのもつ、はかり

しれない深みへの第一歩がはじまるのではないでしょうか。

手をだし口をだし、子どもを管理し、おさえつけて、おとなの思うままの“狂育”をほどこす

ところには、人間の教育は存在しないことを知らなければなりません。

心の彩り

何年か前、私が“心の彩り”という言葉を口にしたとき、「そんなものがあるんですか」とあ

る人に質問されました。なるほど、彼はいかにも心の彩りのあせた感じの人でした。

笑い顔を人にも子どもにもあまりみせたことがないし、彼が大きな声をたてて笑ったのをき

いたことがないというタイプの人でした。それでも何年か幼児教育にかかわっていたようで

すがいつのころからかこの世界から去っていったようです。

教育にかかわる人、とくに、幼児の教育にかかわる人に必要なのは、心のやさしさであり、ユー

モアです。小さなことがらに、心の琴線がこまやかに反応してひびきあい、感動することので

きる心をもっている人でないと、幼い子どもたちとともに生活するのにふさわしくないので

す。

人の心にはあたたかい色、やわらかい色、繊細な色、ひびきあう色、また、激しい色、強い色、怒

りや悲しみの色などなど、じつにさまざまな色あいがあります。その心の彩りから、人の顔の

表情がうまれてくるのです。表情に変化のない人は、心の彩りもない人なのです。

日本人の心には、昔からじつにゆたかな彩りがあったことを、岡潔氏がかいておられました。

“あった”のであって、今はどうなっているのでしょうか。岡潔先生は、日本人の心が失われ

つつあることを心配しておられました。

サクラの花吹雪のなかを、じつにつまらなそうな顔をして、ぶつぶつと子どもに文句をいいな

がら、ひきずるように手をひっぱっていく母親の無表情な顔、無感動な姿をみたりすると、心

の彩りの失われた生活のなかで、育てられなければならない子どものせつなさと悲しみを、ひ

しひしと感じざるをえないのです。

顔の筋肉まで、動かすのがおっくうになってきたという、現代の機械化され、合理化された生

活に、慣れきってしまった人間のなまけ癖は、子どもの育ちに深刻な影響を与えないはずはな

いのです。ロボットやキガイダーのように物質化し、心の硬直した人間がうようよと出現して

きたら、この世界はなんとおそろしいことになってしまうことでしょうか。

そんなおそろしいことにならないように、子どもたちがそれぞれ自分の心に、ゆたかな色づけ

をしていくことのできるような、人間らしい環境をととのえていきたいと願うのです。私たち

おとなが、自分の心の彩りをゆたかなものにしていこうとする思いや願い、いやむしろ自分に

対する課題意識をもたなければ、物質化し、機械化していく現代人の生活にブレーキをかける

ことはできないのです。

伝承と創造

私たちは、子どもにゆたかな文化を伝えていく責任があります。

子どものための文化が、今日ほどゆたかに、多彩になった時代はかってなかったでしょう。驚

き、あきれるほどの豊富さで、子どものためにつくられた“文化”が、今の日本にはあふれて

いる感じです。しかし、何かがたりない、どこか違っている、なんとなく狂っている、という感

じがするのです。

かつてテレビが登場したばかりのころ、マスコミ用語で“ジャリもの”という言葉がはやり

ました。子どもをジャリにたとえたのです。安っぽい童謡レコードがはんらんしたり、ドタバ

タのくすぐり専門の番組が横行したりしました。子どもはどうせジャリなんだからという発

想からでてきた、安あがりのおそまつなゲテモノ文化がマスコミを支配した感がありました。

今は、どうでしょうか。

あるテレビ局のディレクターにきいた話では、番組製作の主導権がテレビ局側よりも、コマー

シャルを買ってくれるスポンサー側にあるケースが非常に多いといいます。子どもの側に立

つよりも、商業主義(コマーシャリズム)が優先する時代なのです。

子どものための文化というよりは、コマーシャリズムのための文化のほうが、はるかに優勢で

強力なのが、現代の事実なのです。子どもが主体となり、子どもが自分の手や足をつかってく

ふうしたり努力をしたりして、やっとつくりあげることのできるような“余地”をもってい

るものは、“売れない”からだめなのです。

子どもが根気強く時間をかけて取り組み、失敗や試行錯誤をくり返しながら、ときにはけがま

でしてやっと完成するか、途中で挫折してしまってなかなか完成しないというようなものは、

まず、コマーシャリズムのベースにはのらないのです。すべてがおてがるに、なんなくやれる

ようなもの、ちょっとだけ手を加えるとまちがいなくできてしまうもの、そういうオブラート

にくるんだようなものばかり“与えられて”育つ子どもは、まともな人間らしい力を獲得し

そこなってしまうのです。

私たちは文化というものを、伝承するものであると同時に、創造していくものと考えています

子どもをばかにしたジャリもの文化で、子どもを手なずけ、親をだますのではなくて、子ども

にとってほんとうに手ごたえがあり、ちょっとやそっとではゆるがないような、タフな文化体

験をゆたかに子どものものにしていきたいと思っています。

四歳児たちが一学期の後半には、もう木工に挑戦してみたり、五歳になると丸太や角材を何時

間もかけて交代しながらやっと切りとばして、物見やぐらだの、馬や船をつくってみたり、セ

メントで動物をつくって、自分たちの遊びの場を広げていったりという活動を、大事にする理

由がそこにあるのです。

苦労して、苦心して、重いものを運んだり、穴を掘ったり、あちこちを痛くして泣いたり、途中

で仲間どうしの意見がくい違ってけんかになったり、ありとあらゆる体験をしながら、やっと

つくりあげたときの喜びと完成感、成就感はなんともいえない感動的なものなのです。

私は、子どもたちのこの喜びの体験こそ、人格形成にとって基本的に重要な意味をもつものだ

と思っています。「やったあ!」という完成の喜び、それは無から有をうみだしたような、創造

の喜びなのです。

単なる木片や砂やセメントの粉のなかから、自分たちの努力によって、新しい価値のあるもの

が“うみだせた”という創造的体験を、どれだけ数多く子ども時代に経験することができる

かということが、子どもたちの将来にとって決定的に大切な意味をもつのです。

文化とは、ただ受動的に受けとるだけのものではないのです。

文化とは自分自身の力によって、創意くふうと根気強い努力の積みかさねの結果として、自分

の生活をよりゆたかにし、より内容のあるものにしていくものとして、自らつかみとり創造し

ていくものなのだという“原体験”を、私はこよなく大事にしたいのです。

自覚から他者へ

子どもたちの“しごと”をみていると、じつに多くのことに気づかされます。

はじめは“ひとりで”すべてをやってのけようと悪戦苦闘しているのですが、どうにもうま

くいかないときがあります。

金山めばえでは、冬の真最中に何週間もかかって雪の造型に取り組みます。

あるボス的な子どもがいました。いつも仲間に君臨していばっているのです。ある日、彼はひ

とりでソリを独占し、それでたくさんの雪を運ぼうとしていました。ところが、雪を満載した

ソリはどうしても彼ひとりの力では動かないのです。

さんざん努力し、あれこれとためした結果、彼はついにひとりでその作業をするのを断念し、

仲間に助けを求めたのです。数人の仲間と一緒に力をあわせたとき、重いソリはやっと動いて

くれました。彼は、ボスから仲間のなかのひとりに変革していくきっかけを、その体験から学

んでいったのです。

子どもが道具や素材をひとり占めにしようとする段階は、いわば“前人間的”な段階です。ひ

とりでなんでもやれる、やりたいと思っている段階からぬけだして、仲間と協力してやれると

ころまで、社会的な成長をとげていくことをとおして、子どもは動物から人間への道を歩んで

いくのです。

強い子は、ひとりでノコギリを独占したがります。それでいいのです。彼は、太い角材をひとり

で切ってやろうとたちむかっていきます。ところが、ノコギリが角材のなかにくいこんでいけ

ばいくほど、ノコギリをまっすぐにひくことがむずかしくなってくるのです。彼は、仲間に角

材をおさえていてくれるように頼まざるをえない状況に、追いこまれていきます。

前と後ろを仲間がしっかりおさえて固定してくれることによって、彼ははじめてノコギリを

まっすぐにひけるようになるのです。そのうちに、彼はくたびれてきます。

そして、ついに“交代”を仲間によびかけることになるのです。強いはずの彼は、仲間にか

わってもらい、仲間とともに仕事を分けあっていくことによって、目的に到達できることを学

ぶのです。そこで、仲間の助けや協力を必要とする自分に気づくこと、ひとりでノコギリを独

占していた自分の限界を認め、仲間とともに仕事をするはうがはるかに楽しく、しかもめあて

としていたものを実現できることに気づくこと、そうした気づきが大事なのです。

おとなが言葉で協力とか仲よくとかという徳目を並べたてて指導するよりも、子どもが事実

をとおして自分の体験として、いやもおうもなく認識せざるをえない場合に追いこまれてい

くほうが、はるかに効果的に、しかも確実な認識として子どもにインパクト(刻印づけ)されて

いくのです。そのような体験的知識は、子どもの生きる力として、その生涯を導いていくほん

とうの力になるはずなのです。

子どもは自分自身の力の限界を知り、自分だけでやれることの範囲をしっかり認識していく

プロセスのなかで、仲間を求め、仲間とともに生きることを知っていくのです。そのような自

覚、自己認識をとおして他者の存在への意識といいましょうか、人間とは社会的存在であると

いう認識、しかも人間とは“ともに生きる”存在であるときに、もっとも人間的なのだという

人格的な認識をつかんでいくのだと思います。

幼児教育というのは、そういう意味で人間の一生をとおしてじわじわときいていく、ほんとう

の力を育てるところだと、私は確信しています。

Ⅳ 人間の教育

1 自分の人生を

自分で決める

日本の学校教育は明治以来、今日にいたるまで百年以上にわたって、依然として教室の正面に

黒板があって、その前に教壇があり、教師がいて“授業”をするスタイルが大勢を占めていま

す。

教育というのは授業をすることであるという考え方が、しっかり根をはっているように思え

ます。知識を授ける、技能を伝授するというのが、教師の仕事の大部分であり、そのつけたしと

いうか刺身のツマのようにして、子どもの自主活動が認められているというような気がして

なりません。

教育観の主な柱としては、子どもというのは本来未完成なものであり、未熟なものである。ほ

うっておいたら何も覚えないし、また覚えようともしないなまけものである。だから、子ども

は学校へいき、教師という専門家から、それぞれの年齢に応じた知識、技能をほどこされ、訓練

されなければならないという考え方です。

子どもを未完成、未熟、不完全、さらになまけものとみるから、賞罰主義がでてくることになり

ます。よい子にはマル、悪い子にはバツというような評価表が教室にはられ、忘れもの、ルール

違反の数々について、毎日マルとバツがつけられていきます。

ルース・ベネディクトが『菊と刀』という本のなかで、欧米人はキリスト教の影響によって“

罪の文化”をつくりだし、日本人は“恥の文化”をつくってきたと分析していましたが、どう

も近ごろは、日本人のほうが罪の文化に近づいているようです。

教師は子どもに恥をかかせ、罪の意識を一生懸命に植えつけようとしているように思われる

からです。近ごろ、よく“いじめ”が問題になりますが、私は子どもどうしのいじめの原因の

ひとつは、教師による、子どもへのいじめがあるのではないかとさえ思っています。

小、中、高、大学といじめぬかれて、やっと教師になった若者が腹いせに今、自分の生徒をいじ

めているために、子どもどうしもまた標的をみつけて“いじめっこ”をしているのではない

かと思われるふしがあるのです。

子どもたちに、もっと自分のやりたいことをやれる自由を与えてやれないものでしょうか。

子どもはおとなからみれば未完成、未熟です。しかし、子どもの側からみれば三歳は三歳なり

に、五歳は五歳なりに、その年齢において、子どもは“成熟し”“完成し”ようとして必死に

生きているのです。

みようによっては、すなわち視点をかえれば、子どもはそれぞれその年齢に応じ、その子の発

達に応じて、じつにみごとに成熟しているのです。子どもを単なる知識や技能の“いれもの”

とみ、“伝達の対象”とみる教育観に立っている限り、成熟している子どもの姿は“みえな

い”のです。

だいいち、子どもは絶対になまけものではありません。

子どもに自由な探求の時間と場所を与えれば、子どもというのはじつに誠実な、そして好奇心

にとんだ、あくことのない探求心のかたまりのような存在であって、マルやバツによって恥を

かかされたり、あめをしゃぶらされたりしなければ、何もやらないなまけものなどではないと

いうことがわかるはずなのです。

子どもに“自分で決める”自由とゆとりを与えれば、子どもはゆたかに生きかえるのです。

自分で選ぶ

今の子どもは、自分で自分のしたいことを選ぶことがとても苦手です。

入園したばかりの子どもたちに、「何をしてもいいのよ。好きなことをして遊びなさい」と

いっても、ポカンとして何をしていいのかわからず茫然と立っています。自由にしていいとい

われても、何をしていいかわからないのです。

昔の子どもは、そうではありませんでした。毎日のように園を“ぬけだして”手賀沼に遊びに

いってしまい、ザリガニやオタマジャクシを追いかけ、お腹がへるとお弁当を食べに園にも

どってくるという子どもたちでした。

今は自分のやりたいこともわからずに、しかたがないので、メソメソと泣いたりしています。

おとなの指示や命令がないと、自分から行動を起こすことができないのです。

私たちはそういう自分というものを失った子どもを、徹底的に追いつめていきます。その子の

したいことがみつかるまで、その子にまかせておくのです。その子が、自分で選ぶまで待って

いるのです。

めばえは子どもに冷たいといって、嘆いたり非難したりする親がいます。泣いている子をほ

うっておくといって、批判する親もいます。

私たちは、子どもが自分で自分のしたいことをしはじめるまで、我慢し、耐えているのです。

その子が自分の意志で自分のやりたいことを意識し、自分で自分の生活の内容を選びとり、自

分で自分の行動を決定して動きだすのを待つのです。

親も教師も、その子自身の人生をその子のかわりに生きてあげることはできないし、また絶対

にしてはならないことなのです。その子の人生は、その子自身のものです。その子が自分で自

分の人生の中身をつかみとり、自分の意志と責任とにおいて、自分の人生を選びとっていくの

でない限り、人生とか生きるとかということは、なんの意味も価値もないことになります。

まさに、人間否定と人間無視のおそるべき非人間的な状況がうまれることになります。

私たちが、子どもが自分で選ぶということを大事にするのは、その子の“今”を大事にすると

同時に、その子の“全生涯”に責任を負わされているという意識があるからです。

そんなふうに考えるのを“事大主義”だというなら話は別です。

入園式の翌日から保育室に鍵をかけたり、ガムテープで目ばりをしたりして、子どもたちをと

じこめて、泣きやんで園に慣れるのを待つという話をききましたが、私たちはそんな非人間的

な“飼い慣らし”や、抑圧によって黙らせたり、あきらめさせたりする方法をあくまで拒否す

るのです。

子どもを権力や体制のしくみのなかでおさえこみ、うむをいわさず黙らせるような教育は、人

間の教育としてはふさわしくないのです。

そんな教育は“動物園にいけ”と、私たちは思っています。

自分で育つ

母の胎内に受精した新しい生命は、受精から約二週間、まったく独立し、周囲の何にも依存し

ないで、その生命の最初の歩みをはじめるという、医学者の報告を読んだことがあります。じ

つに感動的な事実ではないでしょうか。

生命の誕生のいちばんはじめのとき、その生命は一定期間、まったく独自の自分だけの生命の

いとなみをはじめていくというのです。

人間という存在の尊厳に満ちた生命の最初のいとなみが、母の胎内において、まったく独立し

た、ただひとりの歩みであるということのもつ意味を私たちは深く考えてみることが大切で

す。

そして、人間だけが死という問題について考えうるいきものであるともいわれます。

人間とは本来、本質的に“ひとりで”生きるものであり、ひとりで“死ぬ”ものでもあります

。他人がだれかの人生に割りこんでくるということはありえないし、またあってはならないの

です。

かけがえのない人生をただ一回だけ生きることのできる存在として、人間は生きることの意

味を考えながら、生きるものとしてつくられています。

人間は、存在するだけでは意味がないのです。存在すること、生きているということだけでは、

動物と何もかわらないのです。存在することの意味、生きていることの意味を問いながら、人

間は生きるようにできています。

自分の生きていることの意味や価値を最大限に感じとれる生き方とは、どんな生き方なので

しょうか。それは借りものではない、ほんとうの自分の人生を自分で生き、働き、自ら納得でき

るような生き方をしているときです。

自分の人生を自分で生きる、自分の生活の内容を自分の責任において選びとっているという

実感を自ら感じるような状況のなかで、人間は生きがいとか生きている喜びや充実感を感じ、

人生の意味をつかむのです。

そのような視点から、私たちは子どもの園生活をみつめていきたいのです。

いのちのはじまりにおいて、何ものにも依存しない独立した、ただひとりの出発をした人間は

その後のいのちのいとなみにおいても、できる限り“ひとりで”自分の歩みを決定し、方向づ

けていくことのできるような生活をすごしたほうが、より人間らしく育つことができるよう

な存在なのだと思うのです。

とくに幼児期において、子どもがそのような“人間にだけ与えられている独自性”の原則に

もとづいた育てられ方をすることの大切さを、考えたいのです。

親や教師は“つかず離れず”というような適切な距離をおいて、子どもに対応していくこと

を大切にすべきです。

べったりとくっついて口をだし手をだして、過保護、過干渉の子育てをすると、子どもはみご

とにだめになりますし、あまりにつき離しすぎて、スパルタ式のきびしすぎる子育ては、子ど

もをいじけさせてしまい、おどおどしたり、人の顔色をうかがったりするような、卑屈でス

ケールの小さな人間を育てることになります。

子どもは自分で育つ、育ちたがっている、また、自分で育つ力をもっているということを忘れ

ない教育、子育てをこころがけたいものです。

伸間とともに

子どもは、仲間がいなくてはまともに育つことはできません。仲間とともに育ちあい、育てあ

う関係を私たちは“宝石のように”大事にしたいと思っています。

ある年、三年保育で入園したK君は、入園式の翌日から約二週間、通園バスから降りてきませ

んでした。「僕、ここにいる」といって動かないのです。

二週間後、彼はバスから降りました。そして、今度は車庫前の丸太のベンチに腰をかけて、また

一週間以上そこから動きませんでした。五月にはいると、お弁当がはじまります。

K君のクラスの隣には、三年保育の二年目の年中児のクラスがありました。その四歳児たちの

数人が、もうすぐお弁当がはじまるのに、園庭の隅っこの丸太ベンチでは困るだろうと担任に

要求して、厚さ一センチぐらいの耐水ベニヤ板とスギのタル木をもらい、二日がかりで小さな

机をつくってくれました。ちょっと変形のおもしろいかたちの机でした。子どもたちは白ペン

キを塗って仕あげると、お弁当のはじまった日、その机をK君のところへもっていってあげた

のです。

K君はすてきな白い机の上に、お弁当を広げて食べはじめました。それをみていた年少組の子

どもたち数人が、「僕も、あそこで食べたい」といいだしたのです。

K君の机は、友たちのお弁当でいっぱいになり、小さな食卓をかこんで、数人の三歳児たちが

楽しそうに食事をはじめたのです。

翌日から、K君は自分のクラスにはいっていくようになりました。仲間ができたK君は、入園し

てから三週間後、自分の意志で自分のクラスにはいってくるようになりました。だれに強制さ

れるのでもなく、命令に従わされるのでもなく、自分で自分の行動を決定していく“その瞬

間”を、私たちは“信じて待つ”ことにしています。

人間は、自分の人生を自分の責任によって生きていかなければならない存在なのです。その人

生の始期において、他人に手をとられてひきずられていくような、屈辱に満ちた出発を経験さ

せてはならないのです。

多くの場合、子どもは仲間に助けられ、刺激をうけて、自分のとるべき行動を選びとっていく

ことができるようになるのです。

おとなの指示や条件づけは、子どもの心に傷あとを残すが、同年齢の仲間による刺激やモデリ

ングは、心理的抑圧や傷にならないという心理学の研究成果を、私たちはおおいに現場の実践

に役だてていきたいのです。

子どもに迫る

私たちは子どもを信じ、子ども自身の育つ力を信じ、仲間と育ちあう子どもの力を信じていま

すが、それだけで保育の仕事がまっとうされるわけではありません。

もうひとつ、子どもたちにきびしく迫っていく教育のはたらきというものがあります。

とくに、三、四歳児の時期や五歳の初期には、教師の価値観にもとづいた生活の基本的なこと

がらについて、ひとつひとつ具体的な場面で“けじめをつけていく”ことを子どもたちに教

えていく必要があります。

幼稚園の生活では、こういうことが大切なのだとか、そういうことは“してはならないこと”

だとかという、人間の倫理というか、人間の道とでもいうべき、基本的なことがらについて、具

体的な場面や実際の子どもの行動にもとづいて、そのつど、その場で現場をおさえて、教師の

価値観や判断、考え方を子どもたちに伝えていくのです。

友だちをばかにしたり、理由もないのに乱暴したり、ものを投げたり、つかったものをかたづ

けずにほうりだしておいたりなどいろいろありますが、私たちが絶対に許さないことは、弱い

ものいじめです。

自分よりも弱いものに対して、カの強いものがたとえ言葉だけであっても、おどしたり、恐が

らせたり、無理やりに何かしたりすることをみのがしてはならないし、まして暴力によって相

手を痛めつけたり、傷つけたりすることを絶対に許してはならないということです。

そのためには、教師の毅然とした断固たる生きざまが必要になります。

わがままを許さないという原則についても同様です。

メソメソ、シクシクといつまでもしめっぽく泣いている子ども、泣きさえすればだれかがなぐ

さめ、なだめて、目の前の課題を除いでくれるのを知っていて、あたりのようすをうかがいな

がら、グジグジと泣いている子ども、そういう子どもには、泣いても問題は何ひとつ解決しな

いことを、“思いしらせて”やらなければならないのです。

幼稚園の教師は、一面じつにやさしそうにみえますが、反面ではじつにきびしいものをもって

いなければ、一人前の教師に“なる”ことはできないのです。

子どもたちひとりひとりの“その子の育ち”を、こよなくやさしい目と心で受けとめながら、

同時に“その子の問題”を深くみつめるきびしい目と、その子の変革を求めて“迫って”い

く心の気迫とをあわせもっていなければ、幼児の教育にかかわるものとしては、失格者なので

あると思うのです。

めばえの教師集団ははた目にはじつに楽しげに、毎日子どもたちと遊びほうけているように

みえます。しかし、職員会議での保育者として、人間として育っていく本質にせまる話しあい

に、ときには、いたたまれなくて涙を流すものがあるほどのきびしさは、よその人には想像も

つかないほどのものです。

子どもを大事にするということの、真の意味を理解しているものたちの集まりは、こんなにき

びしいものなのかということを、ときおり、参観にこられる関係者の人たちは驚くのですが、

私たちは“まだまだ”あまく、きわめて不十分だと思っています。

道ははるかに遠く、目標ははるかな高みにあるのです。

2 創造的生活を

ざまあみろ!

私は子どもが主人公である幼稚園とは、いったいどんなありようをしたらいいのかを、この三

十年間求め続けてきました。

はじめのころ、まったくの素人であった私は、幼稚園教育に六領域があるということすら知り

ませんでした。

無責任な話ですが、私は幼稚園をはじめたばかりのころ、ただむしょうに小さい子どもらと遊

びたわむれるのが好きで、それだけでいいのではないかと思っていました。

子どもたちと追いかけっこをして、絶対につかまらないで最後まで山のなかをかけまわり、汗

まみれになりながら「ざまあみろ、おまえらにはつかまらないぞ」とうそぶいていたもので

すが、子どもたちと精いっぱいからだをぶつけあって“生きて”いることが教育なんだ、とい

う、思いがあったのです。

幼い子どもたちに、おとなである教師が自分の人生のかけがえのない日々を“与えて”いく

ことが、教育といういとなみにおける基本的な“できごと”なのです。

そうだとすると、教育におけるもっとも大事な“仕事”は、おとなの知識や技術、技能を子ど

もに“切り売り”したり、“押し売り”したりして、その報酬で飯を食うというような、さも

しいものであるはずがないし、あってはならないのではないかと考えざるをえませんでした。

固定した知識の切り売りや押し売り式の教育ほどみじめな、非人間的なしわざはないのでは

ないでしょうか。決まりきったパターンを子どもたちにおしつけて、それが指導だなどとはと

うてい考えるわけにはいきません。

私は、子どもたちに人生の先輩として、やれることをしたいと考えたのです。

幼稚園教育について何も知らない私は、子どもたちに人間としてこれから“生き”かつ“成

長”していくうえで、もっとも大切なことを伝えていきたいと考えたのです。

そのひとつが、“ざまあみろ”という体験学習の場です。

どんなに努力しても、どんなに一生懸命走ってみても、子どもの力では私に勝つことができな

いという事実を、遊びのなかで子どもたちにわからせ、人生の先輩に対する尊敬の念をいだか

せたいと思って、私はそれこそムキになって山のなかを走り、ヤブにもぐって追いかけっこを

しました。今になってみると、ばかみたいにただ走りまわっていたように思います。

かくれんぼをしても絶対にみつからないところにかくれてしまい、子どもたちのほうがあき

らめて別の遊びをはじめてしまったりしました。考えてみるとずいぶん幼かったというのか、

若かったというのか、がむしゃらにからだだけで、子どもにぶつかっていたようにも思います

しかし、私は子どもたちに力いっぱいに生きるということ、今というこのときをかけがえのな

い“とき”として、心をこめ思いをこめて精いっぱいに生きるということを、自分で生きてみ

せるという以外に、伝えようがないものと思っていたし、今でもその思いにかわりはないので

す。

たった一度の

世の中には、たった一度しか経験できないことがたくさんあります。自分の人生もそうですし

、今日という一日、今というこのときもそうです。

子どもたちの園生活の日々もそういう“ただ一回限り”のくり返しのきかない生活として、

私たちにゆだねられています。その責任の重さを考えると、身の毛のよだつ思いがします。

と同時に、責任があまりにも重く大きいために、とても私には負いきれないという思いが浮か

び、どうしたらこの責任に耐えられるのか、という“逃げ道”を求める思いにたどりつくので

す。

そうすると、教育といういとなみの“もうひとつの面”がみえてくるのです。

もともと人間は、人間によって教育されてきました。欠陥だらけの、たりないところがたくさ

んある人間そのものによって、人間は教育されるように“なって”いるのです。人間による人

間の教育以外に、人間の教育はありえないということに思いいたったとき、私は気持ちがらく

になりました。

人間の教育というのは、もともと不完全でいろいろと問題や癖をもつ人間によっておこなわ

れるものなのだということ、人間は人間の限界のなかで教育される以外に道はないのだと考

えたとき、これは“しかたのないこと”として受け入れなければならないと考えたのです。

たった一度の人生をおたがいに“必死に生きる”以外に、子どもと教師の関係というのはあ

りえないと思ったのです。

どれほど不完全であっても、どれほど欠点や不足の部分をもっていようとも、教師というの

は“今”というこの瞬間を、子どもとともに必死になって“生きよう”とするその思いを自

らもち続ける限り、子どもとともにあることを“許され”、子どもの前に立つことを許される

のだと思うのです。

完全とは

『天略歴程』という本を書いたイギリスの有名な作家、ジョン・バンヤンが教育について語っ

た言葉のなかに、「教育とは気宇壮大にして、完全なる人間を育てることである」というのが

あります。

私はずいぶん長いあいだこの言葉がのどにひっかかって、意味がのみこめずにいました。

あるとき、ふっとバンヤンのいった言葉の心がわかったように思いました。

人間とは、終生完全になりえない存在のはずです。

敬虔なクリスチャンだったバンヤンが、なぜ“完全なる人間”などという、神をはばからない

言葉を語ったのか、その真意はなんであったのでしょうか(私のあてずっぽですから、もしま

ちがっていたらお許しください)。

バンヤンのいう完全な人間とは、けっきょく、完全になりえないことを“知っている”人間と

いうことではないかと、思いいたったのです。

自らの不完全さ、未完成さを徹底的にわきまえている人間、そして未来にむかってたえず成長

し続け、完全なもの(神)を求めてやむことを知らない人間を、バンヤンは“完全なる人間”と

いったのだと、私は思うのです。

そのように考えて、子どもをみると、まさに子どもこそ“完全な人間”に必要な諸条件をもの

のみごとに備えているではありませんか。子どもは自分の弱さや不完全さをちゃんと知って

います。

恥ずかしいなどという世間態や周囲の目を気にすることなく、どうどうと泣くことができる

子どもたち、楽しいことには目を輝やかせてたちむかっていく子どもたち、その目はいつも前

むきに、はるかな未来をみつめているのです。

「今、泣いたカラスがもう笑った」という、子どもの転換の早さを示す言葉があります。

子どもは、後ろむきで生きる存在ではないのです。

今、けんかしていた子どもたちが、数分後にはじつに楽しげに遊んでいるのです。

子どもの“今”は、その子にとって完全に充実した今であり、子どもの生活というものは、つ

ねに完全な今の連続なのです。別の言葉でいえば、子どもはひとりひとりその子にとって、完

全に成熟した“今”“を生きているのです。

それを不十分とみたり、たりないと評価して子どものしりを叩いたり、もっとやりなさいと責

めたてるのは、おとなの身勝手なのです。ほかの子とくらべて早いとか遅いとか、じょうずだ

とかへただとか、おとなは勝手に一方的な判断をしたがりますが、その子にとってはきょうの

一日は過ぎ去ったすべての日々にまさって、充実し成熟している一日なのです。

子どもは精いっぱいに子どもの日々を生きようとしています。その日々を、どうしておとなた

ちは、”未完成だ“”未熟だ“「まだたりない」とケチをつけたがるのでしょうか。

み方をかえて、子どもの側から子どもの生活をみる目をもつならば、子どもは日々、完全に”

子どもとして“しかも”その子の人生“をひたむきに生きようとしていることがわかるはず

なのです。

子どものひたむきさこそ、バンヤンの語った”完全なる人間“のしるしだと私は思うのです。

生活をつくる

昭和四十年、久保田浩先生が和光学園から白梅学園短期大学に移られたころ、私たちははじめ

て先生を地区の研究会の講師にお招きして以来、現在まで二十年にわたるご指導をいただき

続けています。

久保田先生にはじめておあいして、講義をおききしたとき、私は「この先生の骨までしゃぶっ

てやろう」という決意をしました。久保田先生の話は、私にとってじつに電撃的ショックだっ

たのです。

子どもが主人公である幼稚園をつくるという私の思いが、どれほど底の浅い薄っぺらなもの

であったかを、それこそ頭をどでかいハンマーでなぐられたような衝撃で知らされたのです。

幼稚園というところは、子どもが自分の手、自分の意志で自分の生活をつくるところだという

先生の言葉は、じつに重く私の心にひびきました。

それから二十年、私たちは”子どもが生活をつくる“幼稚園をめざしてきました。

教育というのは、知識や技術の切り売りではなくて、子どもが人間として、また人間であるこ

とにふさわしく、自らの意志によって、自らの生活を創造的につくりだしていく力を育ててい

くいとなみであること、さらにそのために必要な人間観、教育観と具体的な指導にまつわる

数々の手だてとを、この二十年間に、まさに手とり足とりして教え導かれてきました。

私たちがそのような意識で保育に取り組み、子どもたちに接していくと、子どもたちはみごと

にこたえてくれたのです。

人間であることのすばらしさ、人間でありえたことの喜びを精いっぱいにうたいあげるかの

ように、じっにたくましく、ダイナミックに自分たちの生活を創造していく子どもたちが育っ

てきたのです。

人間というのはじつに“応答的存在”なのです。呼べばこたえることのできる存在が人間な

のです。

めばえの職員会議は、じつにきびしい批判がとびかい、子どもの指導について納得のいくまで

激しくやりあい、時間もずいぶんかかりますが、そのような職員会議を支えているのは、じつ

は子どもたちなのです。

子どもたちひとりひとりの顔を思い浮かべ、その子たちのきょうの生活について、真剣に話し

あえば話しあうほど、子どもたちの顔は輝やきをまし、活動の内容がゆたかになってくるとい

う“人間学的弁証法”とでもいったらいいのでしょうか、教師の心と子どもの心とがひびき

あい、共鳴しあって生活をうたいあげていくピッチが高揚してくるという経験が、ひとりひと

りの教師のなかに積みあげられてきたのだと思うのです。

だからこそ、教師はどんな小さなことでも、とことんやりあう気風を身につけてきたのだと思

います。

めばえはきびしいという評判を、多くの仲間たちからききます。それはいわゆる管理のきびし

さではなくて、相互批判のきびしさです。言葉をかえれば、生活をつくることのきびしさであ

り、その土台になる教師ひとりの“生きざま”を問うきびしさであります。

限界のなかで、欠落したものを多くもちながら、なおも子どもの前に立ち続けようとする教師

にとって、仲間が何よりの頼りであり、支えです。

しかも、それは負けイヌのように傷をなめあい、なぐさめあう集団ではなくて、人間の教育と

いう尊厳に満ちたいとなみを、いいしれぬ畏怖の念をいだきながら、ともに助けあい支えあう

ことによって、担っていこうとしているものたちの姿なのです。

親にわび、子にわびて

私は、この三十年をふり返るとき、ずいぶんいいかげんなことをしてきたものだと心から親た

ちにわび、何よりも子どもたちにわびたい気持ちにかられます。

若いときの、ほんとうにかけ値も何もなく幼児教育についてまったく無知であったころの、た

だ無我夢中で子どもたちと遊びまわっていただけの、保育とは名ばかりでなんだか自分だけ

楽しんでいたような時期に、いったい子どもたちに対してどれだけの責任をはたしえたのか、

私は「ごめんなさい」とあやまりたい気分になります。

また、保育の変革をめざしはじめた昭和四十年代には、結婚して家庭をもち、子どもを育てて

いた教師たちにとって、毎日夜遅くまで続いた職員会議は、どれほどたいへんなものであった

のか、言葉にはいいつくせない苦労がそれぞれの生活に、また家族にあったことと思います。

私たちの子どもたちも、長男が昭和三十一年うまれ、次男が三十八年、長女が四十二年うまれ

ですから、昭和四十年から数年続いた変革の嵐のなかでもみぬかれて、幼、少年期をすごしま

した。

小学校五、六年になったころ、娘が「私は子どもが学校から帰ったとき、ちゃんと家にいるお

母さんになる」と妻にいったことがあります。息子どもはそんた女々しいことはいいません

が、家に帰っても両親とも仕事で、子どもたちだけの時間が多かったり、教師たちと一緒に園

で食事をしたりといった生活が多く、彼らにとっても試練であったろうと思います。しかし、

当時の私たちは文字どおり“燃えて”いました。一日一日の園生活のずっしりとした重さが、

こたえようもなく楽しかったのです。

そして、子どもたちがみせてくれる“かわりよう”にどきどきしながら、「これからどうしよ

う」「あしたはどうしたらいい」という喜びと不安のいりまじった気持ちをたがいにぶつけ

あいながら、あしたの生活と、あしたの保育のめやすをみつけようと話しあったものでした。

結婚している教師の夫たちには了解を求めはしましたが、いくら専門職だ、プロだとはいえ、

毎晩毎晩帰りが遅いのでは、やりきれたものではなかったことだろうと思います。

夜九時、十時になると自転車で園まで迎えにきてくれたご主人たちに、まるであたりまえのよ

うにふるまっていたそのころの私は、ノーマルではなかったのだと思います。

あらためて、心からおわびしたいと思います。

それにしても、みんなよく耐えてくれました。

そして、一緒に燃えてくれました。

数年前、白金幼稚園の海卓子先生にそんな話をしたら、「今の先生は、そんなひどい幼稚園で

は勤めてくれないよ」なんていわれてしまいました。そうかもしれません。しかし、今のめば

えの先生たちは、そのころと同じように燃え続けています。あまりいい気になってはいけない

とは思いますが、めばえの先生たちはじつによく動く人たちばかりです。骨おしみしないとい

うのは、あのころからめばえにしみついた伝統なのでしょうか。

それにしても私は、親にわび、子にわび、教師とその家族にわび、自分の子どもたちにもわびな

ければなりません。

そして、また神のみ前でわびなければと思っております。

3 子どもは、今

ロボット化

前にもふれましたが、十数年前の国立音大での音楽教育の講習会において、ある人がウイーン

市立音楽院のポップ女史に質問したときのことを忘れることができません。

「私の子どもは、一日に五時間しかピアノを弾かないのですが、もっと練習するようにさせる

にはどうしたらいいでしょうか」という質問でした。

ポップ女史は当然のこととして、その子の年齢をたずねました。質間者は、たしか小学校の四

年か五年生ですと答えたように記憶しています。

ポップ女史は、「その年齢の子どもに、どうして一日五時問もピアノを弾かせるのですか。そ

のうえもっと弾かせようなんて、とんでもない」と心からあきれ、かつなかば怒りをこめて答

えていました。

そういえば、日本では有名なあるバイオリンによる才能教室の子どもたちが、ヨーロッパヘ演

奏旅行にいった話のなかで、一日九時間の練習をしたということが、恥ずかしげもなく報道さ

れていたのを思いだします。一日五時間とか九時間とかを、ピアノやバイオリンと格闘させら

れている子どもの姿を想像するとき、確信をもっていえることは、そこには“音楽はない”と

いうことです。

ポップ女史は「子どもに苦痛感を与えるような音楽教育は根本的に誤りです」といいました

一日九時間もやらなければならないとしたら、その子はバイオリンにむいてないのです。いく

らやってもだめな子なのです。そのことに気がつかないで、一日九時間やったという美談が誇

らしげにマスコミをにぎわすという珍現象のなかに、私は日本の教育が危機に直面している

ということの“根”をみる思いがするのです。

たしかに子どもに“音をだす”ことは教えられますが、それは機械的な正確さでの音だしで

あって、音楽ではありません。音楽とは、ただ機械的な正確さだけでうまれてくるものではな

いのです。子どもに音楽を教えるといういとなみは、何よりも子どもに音楽を楽しむことを教

えるいとなみでなくてはならないのです。それには、人間であること、人間的に生きることを

教え、伝えようとする“心”が必要です。

五時間といい、九時間といい、そこには人間を教えようとするもっとも基本的なことがらが欠

落しているのです。

音楽から人間というものをぬきとってしまったら、どこに“創造的なもの”が残るのでしょ

うか。あるのはただ「やかましいシンバルやさわがしいドラ」(『コリント人への第一の手

紙』十三章)の音だけなのではないでしょうか。

音楽は人間の心によってうみだされ、創造されてくるものであって、ロボットによって生産さ

れるものではないのです。

ポップ女史の音楽レッスンは、じつに楽しくて、九十分の活動があっというまにすぎてしまっ

たものです。そこに、ほんとうの音楽教育をみたのです。

心の育ち

とてもあかるくて活気に満ちた、A子という女の子がいました。A子ちゃんは、毎日幼稚園へく

るのが楽しくてたまらないといったふうで、とても意欲的で活動的な子どもでした。

その子がある朝、とてもくらい表情をして、いつもの元気がまったくみられないようすで登園

してきたのです。私は「おやっ、へんだな」と思ってしばらくA子のすることをみていました

すると、彼女はいつものように園庭にとびだしていくかわりに、ロッカーから自由画帳をだす

と、黙って絵をかきはじめました。その絵は泣いていました。その日のA子は、自分の好きな赤

や緑、黄、空色といったあかるい色をいっさいつかわず、紫と黒を画面いっぱいにぬりたくっ

ていったのです。

私が「どうしたのA子ちゃん。何があったの、話してごらん」とよびかけたとたんに、A子は

わっと泣きはじめました。昨夜、A子が寝た後でパパとママがけんかをしたというのです。そ

して「ママは田舎のおばあちゃんの家へ帰ってしまうといってた。だから私がきょう幼稚園

から帰っても、ママはお家にいない」といって泣くのでした。

なんだ夫婦げんかか心配させてと、私は原因がわかったのでひと安心。A子に「だいじょうぶ

だよ。ママはどこにもいかないよ。おとなってけんかしたとき、ついなんかいっちゃうんだよ。

心配だったらママに電話してみようよ。ママがちゃんとお家でA子ちゃんのこと待ってるっ

て約束してくれればいいでしょ」といって、A子の家に電話しました。

A子が紫と黒で、悲しみにあふれている絵をかいたこと、夕べの夫婦げんかを全部きいてし

まったこと、ママが実家に帰ってしまうのではないかと心配して泣いていることを母親に伝

え、A子に約束してほしいことを話し、A子と電話で話してもらいました。

その後、私は今後、子どもにわかってしまうような夫婦げんかは絶対にしてはいけないこと、

子どもがどんなに親を頼りにし、親を信頼しながら、必死に生きようとしているか、父と母が

争い、たがいに傷つけあうことを子どもがどんな思いで受けとめ、どれほど小さい胸を痛め、

うちひしがれているか、父と母がたとえ演技でもいい、たがいに信じあい愛しあっているとい

うことを子どもに感じさせるような親であってほしいこと、そのことなしに子どもの人格や

心の育ちはありえないことなどを、母親に話しました。その母親は、電話のむこうで泣きなが

ら私の言葉を受け入れてくれました。

A子ちゃんは、もう社会人になり、そろそろ結婚する年ごろを迎えた、すばらしい娘に成長し

ています。

子どもの心を育てるために、親も教師も、自分自身の生きざまをかえりみる心をもっていたい

ものだと思います。

なにも、自分以上にみせようとか、子どもの前だけとりつくろって、それらしくみせようとか

という、張り子のとらみたいな“こけおどし”や、世間態を気にしてかたちだけをととのえる

ようなことではなくて、あるがままでいい、ときにははだかでいい、地のままの生き方を、恥も

含めてまるごと子どもたちにみせながら、これでも一生懸命生きているんだという“後ろ

姿”を、子どもたちにみせてやるおとなでありたいと思うのです。

子どもたちは、今、手ごたえのある、存在感をもつおとな(親、教師)を求めているのです。

いや、必要としているといったほうがいいでしょうか。

怨念について

今、子どもたちのなかで“いじめ”が問題になっています。というよりも、いじめに気がつか

ない周囲のおとなたちのことが、問題になっているといったほうが正しいのかもしれません。

もっといえば、子どものいじめをうみだし、助長させているのは、じつはおとなだということ

が、問題中の問題なのだというべきでしょう。親も教師も、それ以外のおとなたちも含めて、私

たちおとなの心や生活のあり方が問われていると思うのです。

おおげさにいえば、現代という時代そのもの、現代人という人間そのもののあり方や生き方、

考え方のすべてが、今子どもたちから問われていると思うのです。

昔から、いじめっ子といじめられっ子は学校につきものでした。

私も小、中学校時代をとおして、両者の役割をかなりはでに演じてきたおぼえがあります。小

学校時代、私のいじめの相手の母親が学校にどなりこんできて、担任にこっぴどく叱られたこ

とがありました。以来その子は、伸間のだれからも相手にされないことになってしまいました

中学時代も、やったりやられたりしながらの生活でした。

三十数年後の同窓会で「あのときはごめんな」と昔の友にいわれても、なんのことやらさっ

ぱり思いだせないほど、その数は多かったのです。

教師も教師で廊下を歩いていてすれ違いざまに、いきなりまたぐらをつかまえて「ざまあみ

ろ!」なんてやったりしました。

戦争中の固苦しい空気のなかで、なんとなくあたたかい人間味のある教師たちに育てられた

という思いを、私はもっています。けんかをして家に帰っても、けがに気づかれぬように細心

の注意をしたり、親のほうもみてみぬふりをしたといったぐあいでした。

子どものことは子どもにまかせるという、親の気構えがあったように思うのです。

今、おとなも子どももしだいに“耐性”を失いつつあるのではないでしょうか。

一方では、おとなが“おとなに必要なだけの成熟”をしないままでおとなになりつつあり、他

方では、子どもが“子どもに必要なだけの子どもの生活”を経験しないままで子ども時代を

通過させられてしまうという、ゆがんだ状況がみえるのです。どちらも“人間性の欠如”を示

す、危険な信号です。

子ども時代を充実しないで、○○に五時間、○○に九時間などと追いまわされ、後から後から

過密なスケジュールをこなすことを強要され続けて、ホイホイとおとなに“させられて”し

まったロボット人間やリモコン人間が、今ふえている時代です。

幼児期の楽しかるべき遊びの生活をおおかた“奪われて”育った(飼育されたというべきか)

ことの“怨念”は、ぬぐいがたくその心に“刻印づけ”されているはずです。

このうらみ、はらさでおくべきかという、はらいせ的悪循環が、おとなと子どもとの関係のな

かに“定着”し、定型化していくおそれが、十分にあるといったらおおげさでしようか。

日本の教育をおしつつんでいる暗い陰湿な危機の雲のなかに、私はそんな色あいをみ、この危

機は、ちょっとやそっとではぬけだせない深刻なものであるという感を深めているのです。そ

れは単なる教育の危機ではなくて、人間そのものの危機だからなのです。

今、乳ばなれを

あまりにも“今”を暗くみすぎてしまったようなので、もっとあかるい光の部分をみつめた

いと思います。私は、生来楽天家であると自負しています。つまらないことにくよくよしたり、

すぎてしまったことを、いつまでもくやんだりというような、後ろむきの生き方はしないよう

にこころがけ、また人のいいところだけをみて、欠点や短所は無視しようと努力してきました

そのような生き方を支えている基本的な考え方は、自己および自己を含む人間というものに

対する絶望を基点として出発するということです。別のいい方をすれば、だめでもともととい

うことで、欲をかかないことです。必要以上に自分にも他人にも求めようとしないことです。

まして、ないものねだりなどという無理な考えを、起こさないように極力自分をおさえること

です。子どもをみるときも、私はそうした自分の人生観を土台にしています。

ひとりひとりの子どもを、今その子が立っているその場所を基点として、あるがままにその子

をみ、受け入れていくのです。欲ばらずに、その子のすべてをそのまま認め、受容して、その子

なりの育ちをみつめていくということを、教育の根本原則にすえているのです。

その子にないものを求め、その子にむいてないものをおしつけようとする人為的、作為的な努

力を私はいっさい否定したいのです。そういうむだな努力をすることへの絶望から、私は出発

したいと考えています。

自分のことを考えてみても、やりたくないことを強制されたり、いきたくもないところへいか

されたりするのは、まことにいやなものです。

「右のほおを打たれたら、左のほおをもむけてやりなさい」というキリストの言葉は、キリス

トだからできることであって、並の人間には絶望的なことです。

だとしたら、できないことはできないと素直に自分に絶望し、できることからはじめるのが人

間にとってふさわしいこと、当然のことであり、人間らしいことであるわけです。

その人間らしさを追求していく、はるかかなたに、今はできないが、やがてできるようになっ

ていくという可能性がひらかれているのだと思うのです。

できないことを無理にやらせようとするから、できることまでやる気をなくしてしまうとい

うおろかなことをして、子どもの可能性にふたをしてしまってはいけないのです。

カラスの子どもにトンビはうまれないよと、私は母の会などでよくいいます。みんな笑ってき

いていますが、お腹のなかでは何くそと思っている人が、あんがい多いのではないでしょうか

なにしろ、自由な時代なのですから。

しかし、私は自分も親として三人の子どもたちを育ててきて今思うことは、親が子どもの将来

に期待をかけ、望みをおくのは当然だという思いが半分で、後の半分はなるべく早くそうした

期待や望みを捨てて、子どもを“放して”やることだと思っています。親の思いから、子ども

を自由にしてやるのです。

そうした解放感と自由感が、子どもには大切な意味をもっています。そうでないと、子どもは

親の期待の重圧感のもとで、ときに窒息し、絶望しかねないのです。

子どもたちがもっとも創造的に生きることができるように、私たち親は一度子どもに絶望し、

その絶望のなかに立って、距離をおいて子どもをみつめてやるのです。それが、ほんとうの乳

ばなれではないかと思うのです。

その子の個性

めばえの子どもたちは、じつによく活動します。みごとに遊びぬいています。

親たちのなかには、ずいぶんいろいろな批判もあるようですが、それはしかたのないことだと

半分はあきらめてもいます。ときがたち、ときがこないとわかってもらえないことというのは

あるものだからです。

良寛和尚があるとき、どろぼうにまちがえられて生き埋めにされ、あやうく殺されかかってい

たのを知人に助けられたとき、「それはそれでしかたのないこと」と答えたという話が私は

大好きです。大愚に徹した良寛さまの心境にまではおよばないまでも、“しかたのないこと”

をそのままに認め、じたばたしないことを大切にしたいと思うのです。

子どもたちにも、いろいろなタイプと個性があります。

今、幼稚園時代を精いっぱいに遊び、楽しんでいる子どももいれば、ずいぶんとまどいを感じ、

おろおろしたり、めだたぬように静かに生活しようとしていたり、それはひとりひとり、子ど

ものもってうまれた個性であり、うまれてからの数年問にその子に“そなわって”きた固有

の性質であったりするのです。あるいは親からうけついだ気質と体質という遺伝的なものも

あるでしょう。いち早く自分を全部だしきれる子もいれば、大器晩成型のおっとりとした子も

いて、あたりまえなのです。

ところが親はといえば、デパートのバーゲンセールみたいに、一斉に大安売りをする商品なみ

に子どもを“そろえ”て、“みばえよく”レッテルをはり、売りやすくて、がさのはるような、

けばけばしく飾りたてた目玉商品のように育つことを期待する傾向が、最近強くなってきた

ようです。

前にもふれましたように、私は昔から「めあき千人、めくら千人」といってきました。わから

ない人はわからなくていいということです。

子どもは、ひとりひとりその子でなければもっていない、その子だけの固有の“力”や人格、

個性をもってうまれてきたのです。その個性や人格というものは、本来“その子のもの”で

あって、親といえども、まして教師などはとうてい、勝手にいじりまわし、こねくりまわして玩

具のようにあつかい、あげくのはてに“ぶっこわして”しまうというようなことは、許されな

いものなのです。

個性とは“のばすもの”であると同時に、“深めるもの”でもあります。子どもの育ちをみて

いると、個性ののびる時期と深まる時期とがあります。そして、その時期を決めるのは子ども

なのです。

子どもの生活の仕方にも“拡散していく時期”と“集中していく時期”とがあります。

もちろん、のびる時期と深まる時期、ひろがる時期と集中する時期というのが、何か形式的、固

定的に区分したりできるものではありません。子どもひとりひとりの生活ぶりのなかで、なん

となくそのように感じられたり、そんな気配がするというような、きわめて直観的なものです

しかし、私はそのような“感じ”を大事にしたいと思っています。

この子については、今、そっとこのままにしておいてあげよう、とか、この子はこのままではい

けない、どこかでどかんとどやしつけ、はっぱをかけてやろうとかという、“子育てのカン”

というのでしょうか、ひとりひとりの子どもの個性に対応していく、言葉にあらわせない世界

、どうにも説明のしようのないことが、教育のいとなみにはあるのです。

それがわかってもらえないのであれば“しかたのないこと”なのです。

4 人間を育てる

私がカリキュラム

何年か前、東京都私立幼稚園連合会の研究会でのパネルディスカッションの席で、何かのはず

みに「私は、私自身が幼稚園のカリキュラムだと思っている」と、かるはずみな発言をして関

係者にたいへん迷惑をかけたことがあります。

園長という園長がみな、私がカリキュラムだという思いあがった意識をもって、幼稚園に君臨

し、自分の思いどおりにやっていこうなどということになったらたいへんだという批判がで

てきたというのです。

言外に「おまえは別だが」というニュアンスがあるように(?)きこえたので(きこえなくても、

私はそう思っています)、あまり反省はしていません。本来、園長とはそうあるべき存在なので

すから。

しかし、そのような批判がでてくる現実が、今の幼稚園にあるわけです。

ベビーブームで幼稚園が“買い手”であった時期には、それこそ雨後のタケノコのように幼

稚園がふえました。そして、公立学校の校長を勤めあげた人たちが、私立幼稚園の園長に迎え

られるというのが一般化したのです。そうした元校長たちのなかには、幼稚園教育にふれて、

はじめて人間の教育に開眼したといって、私などのようなかけだしの若造のいうことにいち

いちうなずき、感動してくれる老先生たちがたくさんいてくださるのです。しかし一方では、

長年の教員生活に絶大の自信をもち、教育のことなら私にまかせておけと、小学校教育をその

まま“おろして”きて、親は喜んでいるが子どもは死んでいるというような“狂育”をおし

つけている人たちもいるのです。

そういう一部の退職校長どもに“錦の御旗”をおくったということで、私は批判のまととな

り、お吃りをうけたのです。しかし、考えてみればそれは私の責任ではさらさらないのであっ

て、そんなガンみたいなものをはびこらせておくほうに問題があるわけなのです。

私は三十年の幼稚園づくりをふり返って、「私がカリキュラムだ」という感を、今ますます深

くしています。

「楽しくなけりゃ、保育じゃない」ということを一貫して求め続けてきたプロセスのなかで、

楽しさの質ははじめのころのおそまつさから、しだいに高まってきたように思います。

しかし、しだいに年をとってくると、子どもとからだをはってじゃれあったり、あばれまわっ

たりという、幼児教育におけるほんとうの楽しさから遠くなってくる自分自身に、淋しさをお

ぼえるのです。

子どもたちから“おじいちゃん”とよばれたときのショックは、あれからもう十年近くなる

のに、いまだに思いだします。

子どもたちにいたわられる年になってきたという実感は、涙がでるほどの身にしみる思いで

迫ってきます。

昔、いうことをきかないでさんざんてこずらせた子どもたちが、今まぶしいほどの若さでりっ

ぱな親になり、私にとっては孫である子どもたちが園にきているということを思うと、年を

とってもしかたがないと観念せざるをえないのですが、それでも私は“ガキ大将”をやめる

つもりはありません。

「私がカリキュラムだ」という思いがなくなったとき、私は子どもたちと生活することをや

めるときだと思っています。

うるさい!

前にもふれましたように、私はときどき、母親や子どもをどなりつけることがあります。教師

にも同じです。子どもの育て方がどうにもまちがっているとき、私は子どものかわりに親をど

なりつけるのです。

「私のいうことがわからないというなら、あしたから子どもを園によこさないでもらいたい。

あなたは自分の思うとおりに子どもを育てなさい。私の子どもじゃない、あなたの子どもなん

だから、煮て食おうと焼いて食おうとあなたの勝手だ」と。「親の方針と幼稚園の方針とがこ

んなに違うのでは、子どもがかわいそうだ。だから園としては、この子の人格発達に責任がも

てない。二重人格の子どもを育てることになるから、園をやめてもらう」とどなりつけるので

す。

ときには、「あたたは子どもから不信任をくっているんですよ!それがわからないんですか。

だったらやめてもらいます」というときもあります。

それで変革した人もいれば、しなかった人もいます。十年後にわかってくれた人もいます。

子どもにも、ときにはどなりつけます。メソメソ、シクシクと泣きだしたらとまらないとい

う“嘆きのY子ちゃん”に、あるとき「うるさい。だまりなさい」と割れるようた大声でどな

りつけたら、それっきり泣かなくなって、あかるい元気な子どもに変身してしまいました。

ある親は、私がどなりつけた翌日やってきて、「私はいままで親にもどなられたことがありま

せんでした。うまれてはじめて先生にあんなにきびしく叱られて、ゆうべひと晩じゅう眠れま

せんでした。でも、私の子育てがまちがっていたことが、ほんとうによくわかりました。もっと

、話をきかせてください」といってくれました。

打てばひびくという言葉をかみしめながら、私はおもわず熱いものが胸にこみあげてくるの

を感じたものです。

目的のある生活

人間というのは、存在するだけではなんの意味も価値もありません。生きているだけでは、人

間としての価値はないのです。動物や物も、存在しているということでは人間と同じです。生

きているというなら、植物だって同じです。

人間だけが生きることの意味を問い、存在の価値を問題にするのです。

私は子どもたちが動物のように餌を与えられて“飼育”されたり、植物のように管理され

て“仕たて”られていくような、従来の古い教育にいつまでもゆだねられていてはならない

と思っています。

動物の子ではなくて、人間の子であるからには、人間にふさわしい“生き方”をさせなくては

いけないのです。

それは具体的にいうと、生きるための目的をしっかりもっている生活を、子どもにさせていく

ことです。きょうは、このことをやるために幼稚園へいくんだという、たしかなめあてをもっ

て、子どもが生活することを大切にしたいのです。

めばえの子どもたちは、朝早くから園にきます。昔は七時前からやってきて、よく子どもに起

こされたものでした。

今でも七時ちょっとすぎにはもう園にきて、ひとりでこつこつと何かやっている子がいたり、

家に帰ってから、またでなおしてきて続きをやっている子もいます。

子どもが一日の生活を終えて夜寝るとき、「きょうも一日、とても楽しかったな。あたしも○

○ちゃんと○○をして遊ぼう」という充実感と期待感をいだいて眠り、朝起きたとき「きょ

うは○○をして遊ぶんだ」という、その日の活動や生活に意欲を燃やしてめざめるというよ

うな生活をさせたいのです。

それには、子どもがだれかに指し図されたり、命令や強制によって何かをやらされるというよ

うな、受け身の生活ではだめなのです。

餌を待ち、指示を待つような、動物や植物なみの生存を許される生活からぬげだして、自分の

意志によってやりたいことを選び、決めていく主体的な生活ができなげればならないのです。

自分のやりたいことがいっぱいある子どもは幸せです。

自分自身の生活にたしかな“めあて”をもち、目的をもっている子ども、自分のやりたいこと

にむかって意欲を燃やしている子ども、そういう子どもを育てていくことが、私たちの願いな

のです。

静けさのなかで

この三十年のあいだに、ずいぶん多くの人たちとであってきました。忘れられない人たちが大

勢います。そのすべてのであいをしるすことはとうていできません。

そのなかのひとり、野口恵子姉は昭和三十三年から二年間めばえで生活し、江戸川台の小学校

に付属幼稚園が設置されたとき、主任に迎えられていった人です。

緑内障を病んだ彼女は、楽譜を読むことができませんでした。ピアノを弾くかわりに彼女は口

伝えで、子どもたちに音楽を教えました。じつにやわらかく美しい声で彼女はうたい、話しま

した。

小さな静かな声で話す彼女の言葉は、クラスの子どもたちの心にしみいるようでした。しっと

りとおちついた彼女のクラスづくりのみごとさは、いつもほかの教師たちの目標になってい

たのです。

音楽家のご主人に支えられ、助けられる部分も大きかったと思いますが、何よりも彼女自身の

人に知られない、かげでのなみなみならぬ努力とあいまって、幼児教育に傾けていた彼女の情

熱と類いまれなゆたかな天分と資質にめぐまれて、めばえの歴史のなかに貴重な頁を刻んで

くれた人でした。

最近、ものごとに集中できない子ども、視線が一か所におちつかず定まらない子ども、集中し

て話をきくことのできない子どもなどが、ふえているという報告が、あちらこちらの研究会で

きかれます。

静けさのなかで、ほんとうに心と心とがしっとりととけあうような、おちついた状態での母と

子のやりとりなどというものが、今ありうるのでしょうか。静けさのなかでの、母の言葉かけ

を心にしみてうけとめるような子どもの生活があるのでしょうか。母の言葉が雑音にじゃま

されないで、子どもの心にとどくような生活のなかで育っているのでしょうか。

現代というこの時代は、どこへいっても何かしら音がする時代です。朝起きてから夜寝るまで

、いや寝てからでさえも、雑音や騒音のなかで育っているのが、今の子どもたちではないで

しょうか。

ヨーロッパヘ旅行して気づいたことのひとつは、静けさでした。町を歩いていても、ひとびと

が生活している音はきこえますが、よけいな音はないのです。音楽もないのです。道ゆくひと

びとに、レコードの名曲をスピーカーで流してきかせるなどということはまったくないので

す。

音を大事にするという感覚は、自分の音を大事にし、自分の音で他人に迷惑をかけないという

個人のプライバシー感覚です。ですから、こちらから言葉をかけない限り、だれもふりむいて

くれないし、注意をはらってくれないという“気安さ”と安心感、自分は自分であるという感

覚をいやがおうにももたざるをえない気分になったものです。人のなかで大声をだしたりす

るのはばかか気狂いですから、子どももたいへん静かでおちついています。

母親は子どもが自分にむかって言葉で何かをいわない限り反応しないので、自然に母親の正

面にまわって、その目をみながら話しかけることになります。

目をみつめあって話す、ここから心の通じあう関係が成りたつのだと思うのです。

母親の言葉かけが、周囲の雑音のなかのひとつにならないために、静けさのなかで目と目とあ

わせておちついて話しあえるような生活が、子どもの育ちにどんなに大切なことか、あらため

て考えさせられるこのごろです。

伝わるもの

親の気質、体質は遺伝として子どもに伝わるものだという遺伝説と、子どもは環境や教育に

よって影響されて、その性格や資質が形成されていくという環境説とあります。

私はどちらも正しいと思っています。子どもたちの育っていくプロセスをみていると、どちら

の説も誤りではないという感じをもちます。

子どもはたしかに、親から遺伝としてひきついだものをもっているようです。そして、親に育

てられていくプロセスのなかでありとあらゆる影響を、親から受けていくのではないでしょ

うか。親の言葉づかいや表情、しぐさ、親のものの考え方など子どもは親のすべてを模倣しな

がら育っていきます。

転移という言葉があります。ガンが転移するなどといういい方をするのであまり感じのいい

言葉ではありませんが、親の性質や生活感覚、習慣などはそのまま子どもに転移していくので

はないかと思うのです。親の価値観やものの考え方、行動の仕方だとか毎日の生活をとおして

ごく自然に子どもにうつされ、定着していくというのは、ごくあたりまえのことでしょう。

幼稚園での子どもたちのようすをみていると、一年間の生活をとおしてそのクラスの担任の

癖とか口のきき方などが、じつにみごとに子どもたちにうつっていくことがわかります。

言葉によって伝えられていくものもたくさんありますが、言葉以前の人間にとってのもっと

も本質的なものが、言葉によらず生活そのものをとおして、おとなから子どもに“伝わって”

いくものであるということを痛感します。伝えようとして、言葉によって子どもを指導する前

に、言葉などいらない直観の世界において子どもたちは多くのことを学んでいるのです。

子どもを育てるうえで私たちが何よりも大切にしておきたいことは、言葉よりも親や教師と

の生活そのものをとおして、子どもは多くのことを“直観し”“悟って”いくものであると

いうこと、伝えようとして伝えうるものよりも、ごく自然に生活のなかで“伝わっていくも

の”のほうが多いのであり、その伝わるものによってこそ、子どもの育ちの方向や内容が決

まっていくのだということを肝に銘じ、こころして日々をおくることだと思います。

人間を育てるということは、私たち自身がいかに自分のなかに“人間”をみつめ、自分自身を

人間として育てていくことができるかという、“自分から”でて“自分に”もどってくるい

となみだと思うのです。

二つの方向

子どもの育ち方には二つの方向があります。端的にいって、そのひとつはひらかれた方向であ

り、もうひとつはとじられた方向です。人間というのは、自分の生き方をそうした二つの方向

に決めていくことができるのです。

子どもの未来は限りない可能性にむかってひらかれているとよくいわれますが、その可能性

なるものにも二つあるのです。ひとつは、いうまでもなくゆたかな人間性の開花にむかう可能

性であり、もうひとつはより貧しく、よりとぼしくなっていく可能性です。

「もっている者はますますゆたかになり、もっていない者はもっているものまで失うことに

なる」とキリストが語ったのは、人間の可能性についての二面性を洞察してのうえだったと

思われます。

子どもの教育において大切にしなければならないのは、ひらかれた方向へのゆたかな人間性

の開花にむかう努力であって、子どもをとじこめ、人間であることから遠ざけていくような、

まちがった努力をしてはならないと思っています。

しかし、現実にはどうでしょうか。

枠はめの命令と指示による、一方的な教師主導型の教育が横行してはいないでしょうか。外か

ら内へ、という強力な方向性をもった指導がむしろ喜ばれているのではないでしょうか。

子どもの外側からうむをいわせぬ強力な指導が加えられて、子どもの内なるものを強制し、型

にはめていくのが指導であり、教育であるという考え方が、ひろく一般化しているのではない

でしょうか。

私はそうではなくて、むしろ内から外への指導が教育だと思っています。

子どもが自己充実していくプロセスのなかで自立し、自律的に自分の生活の内容を選びとり

自分が自分の生活の主体となっていくことによって、自分自身の内側で自分というものを

しっかり発見し、獲得し、自己彩成をしていく、その方向においてのみ子どもは人間らしく

育っていくことができるのです。

子どもをおとなの思いのままにあやつろうとしたり、あの手この手でてなずけようとしたり、

次から次へと追いたてて、やらせればできるとばかり、あれこれとしこんでいく指導は、人間

否定の“狂育”でしかないのです。それは長い目でみれば、子どもから人間としてのあらゆる

可能性を、次から次へと奪い去っていく試みにしかすぎないのです。

私は子どもたちがあまりにもみごとに整然として、むずかしいことを“こなして”いるのを

みると悲しくなります。そんなものをやらされているぶんだけ、子どもから人間がそぎとられ

ているのだと感じるからです。

5 子どもと宗教

祈り

毎日の園生活のどこかで、私たちは子どもたちと一緒に礼拝し、祈りの時間をもつことにして

います。祈りは願いです。

その日病気で欠席している友だちが、早く元気になって登園してきてほしいという願い、だれ

かのお母さんの病気が早くなおりますようにという願い、出産のために入院したお母さんが

無事に赤ちゃんをうんでくれますようにという願い、園生活のなかには子どもの祈りのテーマ

は数限りなくあります。

それらの願いを、祈りをとおしてみんなが共有していくのです。

祈りは希望でもあります。

もっと大きくなりたい、心もからだももっと強くなりたいという未来をみつめ、まだ実現しな

い将来にむかっての希望をこめて神に祈るのです。

子どもたちに祈りを教える目的は、よりよく生きていこうとする意志を子どもたちにもって

もらいたいからです。

今、自分が生き、活動しているこの現在の生活をしっかりと自分の足でふみしめる一方で、あ

したの自分、未来の自分というものを、たしかな期待と希望のうちにみつめていく心を大切に

したいのです。

人間とは今、目の前にあって自分の目にみえる日々の生活を生きているだけではなくて、まだ

みえないけれどもやがて確実に自分のものになるはずの、未来にむかっても希望と期待とを

もって生きるとき、もっとも人間らしくゆたかに今を生きることができるということを、子ど

もたちに伝えたいのです。

私たちの現在は過去によって支えられてはいますが、同時により多く、より大きく未来によっ

て支えられているのです。

とくに子どもはきょうという日をほんとうに真剣に生きようとしています。そして、子どもの

きょうの生活が充実していればいるほど、子どもは自分自身のもつ今のなかに、より充実し、

よりゆたかになっていく未来への期待感を直観していくのだと思います。

きょう、充実している子どもはあしたにむかってなんの不安も感じないはずです。

それどころかあしたを待ちこがれ、あしたの自分にたしかな自信をもってきょうの活動を終

えて、子どもは夜眠るのです。まさに子どもとは、現在において未来を先取りしながら生きて

いるのではないでしょうか。現在に未来をとりこんで生きているのが、子どもなのです。

ですから、子どもにとって祈りのある生活というのは、非常に大切な意味をもっているのです

。祈りにおいて、子どもは静かに自分の今に思いを集中し、同時にあしたと未来の自分に視点

をあわせ、期待と希望にひらかれていくのです。

祈りは、また人間の共同のいとなみでもあります。

教師と子どもとがともに横に並んで、神にむかって祈る“とき”をもつことの意味はとても

大切なものです。教師はおとなとして、ややもすれば子どもにむきあって立とうとします。そ

こから教師と子どもとのあいだにすきまができ、距離ができてくるのです。

ともに神の前に立つ人間関係とは、上下の関係ではなく平等の関係です。教師も子どもも、と

もに神にむかって祈るということは、神の前での人間的平等の関係を告白することです。教

師(おとな、親も含めて)は、子どもの上に立っていてはいけないのです。

祈りにおいて、人間はすべて横に並んでいるという感覚は、子どもの人間形成にとって重大な

意味をもつのです。

いのち

私は子どもが泣いているとき、何をさておいても、ただちにその原因をたしかめることにして

います。先生たちにも、そのことを徹底的に要求しています。

子どもが泣くときというのは、いろいろあります。あまえて泣く、わがままがとおらないで泣

く、ちょっとだれかにおされたからといって泣くなどというのから、重大なけがをしていのち

にかかわるような危険な状態にたちいたって泣く場合まで、さまざまなケースがあります。

とくに、いのちにかかわるようた大けがをした場合、子どもは泣く力も失ってしまうことだっ

てありうるのです。ですから子どもが泣いているとき、私はすぐその原因をつきとめるのです

何か異常を感じたとき、いっさいを捨ててその原因をあきらかにしようとする心がまえをも

つことが、教師にとってきわめて大切だと思っています。それはいのちをあずかるものとして

当然の思いなのです。

二十数年前、松戸市常磐平幼稚園の森口清先生と雑談していたとき、話が遠足のことにおよび

ました。

そのとき森口先生は「子どもたちと園を離れるとき、私は下着を新しくしてでかける。死に恥

をかきたくないから」とおっしゃった、その言葉の重さを、私はずっしりとうけとめました。

いのちをあずかるものは、いのちを賭けていなければならないという、教育者としての覚悟を

古武士のような風格をもたれる森口先生から教えられたのです。子どもたちのいのちをあず

かり、その人間としての成長に責任を負うというのは、じつにたいへんなことなのです。

私は、自分にゆだねられている幼い子どもたちのいのちを大切にし、さらに、子どもたちのい

のちのいとなみを大切にしたいと思います。子どもたちが、一日一日のいのちをほんとうに心

から充実したものとして生きていくこと、生きている喜びを人間賛歌としてうたいあげてい

くような園生活をすごしていくことを、大切にしたいのです。

いのちをあずかるいとなみは、物をあずかるのとは本質的に違います。

生きるにふさわしい生活、生きて成長し続ける生活、より高みに、より深みに、より広く、より

充実し、充満し、満ち満ちていく生活を子どものものにしていくいとなみが、園生活でなけれ

ばならないのです。

一回限りのいのちを生きている人間どうしとして、私は子どもたちのいのちの充実と充満の

ために生きることを許されている幸いを感じます。

生きるとは、けっきょく喜びそのものなのです。

私は子どもとともに生きるというのに、ふさわしいいのちの日々を生きたいと思います。だか

ら、子どもが泣いていると、ほうっておけないのです。

その原因をつきとめると、私は安心して子どもを泣くままにしておくこともあります。泣きた

いだけ泣けというわけです。泣くことによっていやされる思いもあれば、泣いたってどうにも

ならないこともあります。また、泣くことによって相手に伝わる思いもあります。

人間にとっていのちとは、ほんとうにかけがえのない大切なものであり、そのいのちの日々に

痛みや悲しみのなかで涙を流して泣くという経験をとおして、子どもは人間になっていくス

テップをふみしめていくのだと思うのです。

矛盾したいい方ですが、私は泣いている子どもの姿が好きです。

彼は泣くことによって自分のなかの何かに挑戦し、何かをのりこえようとしているというよ

うに感じるからです。とくに、精いっぱいにじだんだふんで号泣しながら自己主張している子

どもをみると、私はうれしくなってくるのです。

生きている実感が伝わってくるからだ、と私は思っています。

みえない世界

私が子どもたちに話のできる機会は、最近とても少なくなりました。月に一度の誕生会くらい

なものです。わずか数分の短かいお話をするのですが、聖書から題材をとったり、神さまのこ

と信仰のことを、動物や植物を例にして話します。

私の願いは、子どもたちが目にみえている現象の世界だけに生きるのではなくて、みえない世

界に思いをひそめる心をもってもらいたいということです。みえない世界、かくされている世

界に思いをひそめ、みえるものをみているだけの目ではなくて、みえないものをみつめていく

心の目をもってもらいたいのです。

みえないものはたくさんあります。人の心、母の愛、自分の思いや願い、空気、そして神や永遠

など、私たちの目にはみえないけれども、それはあるのです。

人間にとってみえない世界に目をそそぐこと、みえないものに思いをひそめていくことは、と

りもなおさず自分の心の世界をひろげていくことです。

今自分が生きているこの場所とこの時間にとじこめられないで、もっと遠くにある、はるかか

たたの場所と時間に目と心をひそめていくことができるのは、ただ人間にだけ与えられてい

る特権なのです。

動物と違って人間は希望をいだいて生きることができます。時間をこえたものにまで思いを

はせ、希望をたくして生きうるのが人間です。私は幼い子どもたちの心に、時間と空間をこえ

て永遠なるものに思いをひそめていくことのできる自由を伝えたいのです。

今生きている自分の時間をほんとうに充実したものとして、自分を発揮し自分をつかんでい

く充実した時間として、主体的につかみとっていく一方で、まだ自分のものではない未来の時

間に対しても、心からの安心感と自信とをもち、希望と喜びとのうちに、自分のものとして確

信し、ゆたかに自己実現し続けていくことのできる子どもを育てたいのです。

未来の時間とは、自分の生涯のすべてを包みこんでいる時間です。

その、まだみることのできない自分の未来について、完全な信頼と確信とをもって希望をもち

うる人間、未来を含めてくるべき時間を希望をもって迎えていくことのできる人間、自分の人

生にゆたかな希望をいだいて前むきに生きていく人間、そういう人間を育てることが教育の

目的ではないでしょうか。

今、子どもたちはゆたかな物質文明のめぐみのなかで、目にみえるゆたかさと手でさわれるた

しかさとだけの、ほんとうに貧しいとしかいいようのない“物だけしかない”生活に慣らさ

れています。

そんな生活は、人間として育つためにはじつに貧弱な、中身のない生活であることに気づいて

もらいたいのです、、

人間とは本来、時間や空間に支配されない存在であり、物質のゆたかさや機械の便利さのなか

で飼いならされない、自由な存在であるはずなのです。

時間や空間のなかで生きるように条件づけられていながら、同時に時間と空間をこえて自由

に生きることのできる人間、物や機械にかこまれながら、それらを自由につかいこなし、物や

機械の奴隷になることのない人間、そういう人間を育てなければならないのです。そのために

は、時間のなかで生きながら、同時に時間をこえた世界に目をそそいで生きるという、人間に

だけ与えられている力を子どものなかに育てていかなければならないのです。

私は、そんな思いをこめて短かいお話に取り組んでいるのです。

神への自由

人間は、自由な存在です。

自分のはたすべき責任をはたし、負うべき荷を負ったら、後はすべて何をしようと自由なのが

人間です。しかし、その自由には二つの方向があります。人間的なるものへの自由と、非人間的

なものへの自由との二つです。

人間の自由というのは、人間であることを捨ててしまう、あるいはあきらめてしまうというお

そるべき自由を含んでいます。教育の荒廃をうみだした原因のひとつは、このへんにあるよう

に私は思っています。

話は飛躍しますが、アメリカやイタリアのギャングと日本のやくざとの違いは、その精神的風

土の違いだといいます。アメリカやイタリアのギャングは限りなく残酷で、日本のやくざには

絶対にまねができないといわれてきました。

その理由は、両者の出発点のちがいからくるというのです。アメリカやイタリアの場合、アウ

トロー(やくざ)は神への反逆が出発点であり、日本の場合は反逆すべき神はないというので

す。

神への反逆と単なる人間への反発とでは、その出発点に天と地ほどもちがいがあるのです。

アメリカやイタリアのギャングが、血も涙もない極悪非道の殺人を平気でやってのける背景

にあるものは、神を否定し、神に反逆して生きようとする決意、すなわち神からの自由を選び

とって悪に徹した人間、悪魔に魂を売り渡した人間がそこにいるということです。

日本のやくざは、アメリカやイタリアなみのことはとうていやってのけることができないの

です。極道といってもそれは人の道からそれたという程度のもので、千年も二千年も前からの

人間の骨のずいまでしみこんでいる神への信仰をふり捨て、神への思いをかなぐり捨ててき

たのとはわけが違うというのです。

へんな話をしてしまいましたが、最近の日本の世相をみると、しだいにアメリカやイタリアな

みに近づいているような気がしてなりません。

明治以来、政教分離政策をとり、非宗教化の文化政策を貫いてきたわが日本の近代化路線の“

成果”が、ここにいたってもののみごとに“結実”しつつあるかのように思えてならないの

です。百年かかって、日本民族の心と生活から宗教をとり除く政策を積みあげてきた政治の成

果は、じつにおそるべきものがあります。

教育といわず経済や文化のあらゆる面において、神からの自由が尊重され続けてきた結果、人

問的なるものへの自由よりも、非人間的なものへの自由、人間であることを捨て、人間である

ことをあきらめてしまう自由がおそろしいほど一般化し、ひろがってきたように思われるの

です。

人間の自由は、神からの自由だけではないのです。神への自由こそ人間的なるものへの自由を

獲得し実現していくために、欠かすことのできない大切なものであることを、私たちは再確認

しなければならないときにきていると思うのです。

神や仏への畏敬の思いを回復していくこと、そこに教育をはじめエコノミック・アニマルと批

判をあびる経済や、人間解体といわれる文学そのほかあらゆる文化面での再生と復活の道が、

ひらかれていくと私は信じています。

子どもに学ぶ

私は数年前、私の母教会である東京都世田谷区太子堂にある世田谷教会の恩師羽生慎先生の

ご依頼で、教会の機関誌に小文をかかせていただいたことがあります。

「幼な子をキリストヘ」というテーマでかいたのですが、かいているうちにテーマが逆転し

てしまいました。「幼な子にキリストを」というテーマになってしまったのです。

私はキリスト教会の牧師としてのかたわら幼稚園の仕事にかかわってきたわけですが、はじ

めのうちはやはり、幼な子をキリストヘ導くという課題が、自分にとってもっとも大切なこと

だと考えていました。キリストの精神にもとづいて、子どもたちに宗教的情操教育をおこなう

ことが、キリスト教主義の教会幼稚園の使命であることは、当然です。

毎月の母の会にはかならずお母さんたちと聖書を読み、賛美歌をうたい、聖書の教えについて

お話もします。

しかし、よく考えてみると、子どもたちからキリストを学んできたのではないのかということ

に気づかされたのです。幼な子をキリストヘというよりも、幼な子からキリストを学ばされた

というのが、私の実感なのです。

幼な子にキリストをみるということを、私は幼稚園教育のなかで教えられてきました。

高みにたって、子どもたちを教え導くというよりも、むしろ私は子どもの前にこうべをたれて

キリストや神について、愛や許しについて、人を疑うことを知らず、ひたすらに信じる心につ

いて、教えてくれた子どもたちに感謝したいと思うのです。

フレーベルがいった、「子どもに学び、子どもに生きよう」という言葉のとおりに、私たちは

子どもに学び、子どもに生きるものとして、この仕事をまっとうしていきたいと心から願うの

です。

キリストの愛、無我の奉仕、そしてゆたかな許しの心-そうしたものが、幼な子たちの心のな

かに、また彼らの生活のなかに、具体的な事実として存在しているのであって、私たちおとな

が、“みる目ときこえる耳”とをもつならば、幼な子から人間としてのゆたかな内実を学びと

ることができるのではないでしょうか。

そんなふうに考えてみると、私が子どもたちとともに歩んできた三十年は、まさに子どもに

よって育てられてきた三十年でした。

子どもに教えられ、子どもに学ばされてきた三十年でした。

「俺はガキ大将だ」なんていばってはいられない、子どものおかげで今日があるという、ほん

とうは“子どものしもべ”である自分に気づいたのでした。

子どもは、偉大なる教師なのです。

あとがき

三十年の歩みをふりかえってみると、そのすべての“とき”がすばらしい人たちによって支

えられていたことを、ただ感謝の気持ちをもって、思いかえすだけです。

いくつもの節がありました。そのたびごとにさまざまなであいがありました。

人の心のあたたかさ、やさしさにふれ、支えられて歩みえた道であったことをつくづくと思い

かえしています。ときにはてひどい非難や中傷にあい、うらぎりに似たしうちをうけて、この

仕事を断念しかけたときもありました。しかし、そのたびごとに私を支え助け、導いてくだ

さったすばらしい人たちがいました。

悲しみの谷間を歩み、絶望の淵に立たされるような苦難のときもありました。生来の意地をは

り、自らの信ずるところを貫きとおし続けようと“つっぱった”ゆえに、自ら招いた試練のと

きもありました。

しかし、そのたびに私は死からいのちによみがえるように生きかえってきました。

その力は私のものではなくて、私を支えてくださった多くの友人や先輩たちのあたたかい心

のぬくもりから、私に与えられたものだったと思います。

そうしたすばらしい人たちを、私のまわりにあたえてくださった神の愛と守りにも感謝しな

ければならないと思っています。

何よりも、私はすばらしい教師たちにめぐまれてきました。もちろん人間ですから、いろいろ

と癖はあり、長所も短所も、もっているのは当然です。私はこの三十年のあいだに、ともに仕事

をしてきた百名以上の教師ひとりひとりに、心からお礼をいいたいと思います。

私は子どもたちから、親たちから、そして教師たちから、人間を学び人間を教えられてきまし

た。それら同労者や協力者のひとりひとりを心に思い浮かべるとき、この三十年は私だけの三

十年ではなくて、みんなの努力と汗と涙の三十年だったと感じざるをえません。

園づくりの初期の十数年というもの、妻はひたすらにこの仕事にかかわり、園の門から外にで

たことのない日がどれだげあったことだろうかと思います。しかし妻は、一文なしで今夜食べ

るものが何もないというような日々にもまったく屈託がなく、ケセラセラですごしてきまし

た。

原水禁運動にかかわっていたころは、年間をとおして広島からの訪間者や青年たちがひきも

きらずにわが家にたむろしていたものでしたが、家内は不思議にすべてをまかなっていまし

た。

三十年、同じ職場で働き続け、朝から晩までつきあってきたわけで、外に職場をもつ人にくら

べたら、その関係濃度はたいへんなものだと想います。

したがってよくけんかもしました。職員会議のなかで意見があわず激しくやりあい、家に帰っ

てからも続きをしたりといったことも再々でした。ときには「仕事のことを家のなかにまで

もちこむのはやめよう」などと終戦宣言をしあったりしましたが、いつのまにかどちらから

ともなく子どもたちのこと、保育のことに話がおよんでしまうのでした。まさに、寝てもさめ

ても子どものこと、保育のことにひたすらのめりこんできた三十年でした。

昭和四十年の冬、常磐平幼稚園の森口先生と私とで、世田谷の久保田先生をお訪ねし、地区の

研究会のご指導をお願いしたのがきっかけで翌四十一年から今日まで、月一回の研究会を指

導していただくことになりました。私の人生における大転換と大革新が久保田先生によって

与えられることになったのです。天の配剤といいましょうか、神の導きと摂理によるのであり

ましよう。

私は昭和四十一年の久保田先生とのであい以来、「この人の骨のずいまでしゃぶってやろ

う」と願をかける思いで、ひたすらに先生の後を追いかげてきました。

キリストの言葉に「弟子はその師にまさらず」というのがあります。

私と年齢がちょうどひとまわり上の久保田先生は、私が先生の年のころに達してみるとはる

か彼方を歩んでおられたことを実感させられます。人生とは、ついに求道であるということを

つくづく思いしらされるこのごろです。

最後にこの貧しい思い出の記を一冊の本にしてくださった誠文堂新光杜の東谷昇氏と佐藤圭

子姉に心から感謝したいと思います。こんなものを本にすることをお許しくださった小川茂

男社長にも心から感謝しなければならないと思っています。

一九八六年早春

著者

めばえ幼稚園、その魅力

久保田浩

井上圭司、ミドリ夫妻にであってから、もう二十年になる。

そのころのめばえ幼稚園は、規模も今の何分の一かのものであったし、とくに目をひくような

条件をそなえているという園ではなかった。しかし何度か訪ねているうちに、何かひかれるも

のがあると感じはじめた。

。門をはいると、小さな空間があり、左手には教会の礼拝堂が、右手には、お世辞にもりっぱだ

とはいえない保育室があり、その一部が、先生たちのたまり場になっていた。訪ねるとかなら

ずそこに座りこんで、夫妻や、先生たちとおしゃべりをするのが常であった。

話しはじめると、自分が一訪間者であることを忘れてしまった。いつのまにかその一員になり

語ることができた。そこでの話のほとんどは、子どもたちのことであった。先生たちも、楽しげ

に子どもたちのあれこれを語りあい、そして私にも話してくれたのである。私も遠慮すること

なく、話にふみこんでいくことができた。

そして、そうした話の輪の中心に、井上夫妻が常にいるのであった。

私が感じていた“ひかれるもの”は、まさにこれだったのである。

そして年々、園の規模が大きくなっていった。有刺鉄線がとりはずされ、マツや雑木のはえて

いた斜面が子どもの遊び場になり、保育室もその斜面添いに建てられ、裏側に、プレイ・グラウ

ンドが、あらたにつくられることになった。

私は“年々”といった。それはまるで、植物が幹をのばし、枝をはり、花をつけるのに似ている

のである。思いつき、お金をかけ、外見をととのえるためになされたのではない。井上さんが子

どもを思い、そのあり方をつきつめていったことのひとつひとつが、そのときに、結実して

いったとみるべきである。いわばそれは、井上さんが変革し、前進していった軌跡というべき

だと私は思っている。

すこし角度をかえてみると、このめばえ幼稚園は、まさに“いきもの”なのである。いついっ

てみても、どこかが動いている。この動きは、求める本質が、万全な姿をあらわにするまでやむ

ことはあるまい。未完ということは、不完全ということとは異質である。未完であることが、め

ばえ幼稚園の生命なのである。未完であるがゆえに、そこが、子どもの世界にふさわしく、いつ

も輝いていて、生気があふれている。だから、ひかれるのである。

めばえ幼稚園は、千葉県我孫子市の手賀沼の近くにある。最近は急速に変貌しつつあるが、湖

畔もすこし前までは遊び場のひとつであったという。この手賀沼の周辺は、かつては、芸術を

愛する人たちが、好んで住んでいたときいている。

志賀直哉や武者小路実篤もいたし、陶芸家の富本憲吉も窯をつくっていたという。そこにリー

チも足を運んだときいている。そのゆえかどうかはわからないが、井上さんも絵を愛し、音楽

を愛し、花を愛している。晩冬から春にかけては、さまざまなツバキが園庭を飾り、子どもたち

がその陰で遊んでいる。ホールにはミロの作品があり、ダリのレリーフがある。そして礼拝堂

にはパイプオルガンがある。み方によっては、よぶんなぜい肉のようであるが、ここではそう

ではない。ただの飾りなのではない。

美しいものを愛し、より美しいものを求めることが、もっとも人間らしいあり方だと、井上さ

んは考えている。子どもたちをそうしたなかにおくことが大事だと思い、自らもともにそうあ

りたいと願っているからだと、私はみている。共感もする。

しかし、絵よりも、音楽よりも、花よりも、井上さんがもっとも深く愛しているのは、人間なの

である。子どもに対してはいうまでもない。私たちにもやさしい。激しく論じ、きびしく迫られ

ても、まわりの人たちが萎縮し、敬遠しないのは、そのゆえであろう。

めばえ幼稚園は、井上夫妻が子どもらに捧げる作品なのである。二人がとどまらない限り、こ

の作品は、日に日に姿をかえていくはずである。

私たちが、今ここで読む記録は、ここまでの道程のひとつの側面なのである。かかれない地底

の思いは、まだまだあるはずである。私はそれを読みとりたいと思っている。

そして、二人の作品が、偉大な未完の作品として、これからも描き続けることを祈っている。

この二人を友人にもつことができた幸せを、胸のなかで反すうし続けながら、感懐の一片をか

かせていただいた。

一九八六年春

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